October 2024

10月27日「今日の礼拝堂」

宗教改革記念主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:   神様。あなたの真理は世の闇を照らします。あなただけがまことの光、あなただけが私たちの助けです。あなたの恵みを信じる信仰を、私たちにお与えください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン       ★江別三番館福音キリスト教会から転入された、清水郁美さんのための祈りが行われました。 ○宗教改革記念主日 説教 宗教改革は当時の教会や修道会が堕落していたから起きたのだ、という言説が流布されていますが、これは正解ではありません。そのような一面もあったかもしれませんが、修道士となったマルチンが当時の教会や修道院のいちばん優れた場所に身を置くことでき、御言葉に親しみ、祈りの生活に沈潜するなかで、なおそこに潜む人間の傲慢、罪、というものを無視できなくなった。そして、教会を教会足らしめるものから遠ざかっているということに気づかされたからこそ、教会システムの改革へと時代の要請と共に導かれていったのだと思います。マルチン・ルターからさかのぼる事100年ほど前にいたボヘミアのヤン・フスもすでに当時から売られていた贖宥状の販売や堕落した聖職者について異を唱えており、宗教改革の先駆者と言われています。しかしフスの生きた時代は少し早すぎたようで、彼は異端審問で有罪とされ火あぶりに処せられてしまいました。つまり、マルチン・ルターが1517年の10月31日に「95箇条の提題」を発するに至るまでには、少なくとも二世代ほどの人間の営みがあり、その間に起こった社会的な要因や人々の価値観の形成などが相まって、機が熟した頃にルターという最も適した人物が歴史の表舞台に現れたということだと思います。今日の福音の日課は、主イエスがご自分を信じたユダヤ人たちに対して《わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする》(ヨハネ8:31-32)と言われています。ところがこれを聞いたユダヤ人たちには、その真意が伝わっていません。この人たちは口先では主に従うと言いつつも、自分たちが受け継いできた血統、伝統にとらわれていて、アブラハムの子孫である自分たちはだれかの奴隷にもなったことがないのに、なぜ自由になると言わるのか?と理解に苦しむのです。彼らは自分たちの立ち位置をアブラハムの子孫=神に選ばれた者、自由を持つ者、解放された者という認識でいます。つまり「自分たちは神に選ばれ、自由な者だから今更自由を与えられる必要などない。罪とは無縁の存在です」と言っているようなものです。主イエスが語られる真理を聞くそぶりはあっても、真意を聞き取ろうとすることも、信じることもない、張りぼての信仰であることがここで露わになるのです。そのような彼らに主は《罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる》(34-36)と言って、ご自身を通して神が明らかにされること、示されることに目を注ぎ、耳を傾け、真に信じる者となるように促されるのです。本当の自由とは、血統にも伝統にも縛られず、一人の人間として神の前に立つこと、神の言葉にきくことから始まるのだということを教えられているのです。《わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である》(8:31)この言葉は現代に生きる/生かされている私たちにも語り掛けられています。心が揺さぶられることの多い時代ですが、私たちは主の言葉に留まり続ける者、そして導きに信頼してあゆんでいく者でありましょう。《岡田》         《来週の礼拝》                               #11月3日 午前10時30分 全聖徒主日召天者記念 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「涙をぬぐってくださる方」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:蔵谷俊夫さん*礼拝当番:楢戸恵子さん、小笠原里子さん*聖  書:イザヤ 25:6-9、黙示録 21:1-6(a-c)(新477)、ヨハネ 11:32-44* 讃 美 歌:371番、3142番(1,2,4)、清い心で

10月20日「今日の礼拝堂

聖霊降臨後第22主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:         神様。私たちを贖うために、あなたは独り子をお遣わしになりました。この御方を主と仰ぎ、この御方と共に、隣人に仕えることができるよう助けてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン  《来週の礼拝》                               #10月27日 午前10時30分 宗教改革主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「主の言葉に留まる」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:清水美年子さん*礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:エレミヤ 31:31-34、ローマ 3:19-28、ヨハネ 8:31-36* 讃 美 歌:364番(1,4-6)、245番、増補版34番

10月13日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第21主日 礼拝 アモス5:6-7,10-15 ヘブライ4:12-16 マルコ10:17-31  今週の「つどいの祈り」:         神様。あなたは、思い煩う私たちをご存じです。人知でははかり知ることができない、あなたの愛とみわざを信じる信仰を私たちにお与えください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン 〇 聖霊降臨後第21主日 説教 (説教要旨)         「 富 を 積 む 」 弟子たちは去って行った金持ちの人と自分たちを瞬時に比較したのだと思います。彼のようにお金ないけれど、自分たちは故郷も捨てて、家族も置いて主に付き従っている。そんな自分たちすらも神の国に入れないと言われてしまったらどうしよう?もし、そうであるなら一体誰が救われるのか?どのようにすればいいのだろうか・・・と不安になったのだと思います。弟子たちの思考は去って行ったお金持ちの人と同じように《永遠の命》、《神の国に入る》こと・・・つまり救いの確信は自らの行為で得られるという思い違いです。 どうすれば救われるのか、どうすれば永遠の命を得ることができるのか?という問いは、この物語だけに限らずいつの世にも私たち人間が持ちうる疑問であり難問だと思います。この問いに対して主ははっきりと《人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ》(10:27)と、結論を告げられました。そうです、私たち人間の救いは、人間にできることではないのです。あなたがたは“自分が救われるためにすべきことは何か?どういう者が救われるのか?ということを考えるべきではない。むしろ救いを求めるのであれば、神の憐みを求め、その憐みの内に生きることを考えよ”と言われているのではないでしょうか。 主は永遠の命は人が獲得するものではなく、神から与えられる恩寵であること、また、その恩寵の中に生かされるということは、この世の思惑やこの世の序列とは異なるものであることを明らかにされています。物語の前半に登場する金持ちの人は、この世の権力の象徴かもしれません。人は持たなかった時にはそうではなくても、ひとたび権力や財力、影響力を持つとそれらを手放すことが難しくなることは、私たちも経験的に知っています。主がこの人に持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に施しなさい、と命じられたのは、彼自信が神への信頼をもって生きる者へと変わるチャンスを示されたのです。 けれどもその人はそのチャンスを手放し、主イエスのもとから去ってしまいます。何もかも捨ててあなたに従ってきた、と主張する弟子たちもわかっていません。それでも主イエスは、彼らをお見捨てにはなりません。今すぐには理解できなくても、主に伴い、その言葉、その行いから学び、永遠の命へと招かれると約束されるのです。思い違いをしていても、今すぐには理解できなくても、主イエス・キリストの愛のまなざしの中に捉えられ、真理に触れる者たちは方向転換することができるのです。勝ち取りに行くのではなく、恵みに与る者として、私たちを愛し、慈しみ深く哀れんでくださる方への信頼を持つように促されていく・・・。このことを知らされ、教えられ、その事実に生きる者とされていく中で、私たちは天に富を積む者とされていくのです。罪ある者がその罪を抱えたまま、主によって義とされる・・・神の恵みによって、神からの愛を知る者となった私たちは、隣人のために祈る者、恵みをわかちあう者として世に立てられているのです。私たちがここに生きることができているのは、だた、神の愛と憐れみと恵みによります。これこそ、神の独り子である主イエス・キリストが私たちに示してくださった真理です。(岡田)                       《来週の礼拝》                               #10月20日 午前10時30分 聖霊降臨後第22主日 礼拝 *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「沈黙のさきへと」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:小笠原里子さん*礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん*聖  書:イザヤ 53:4-12、ヘブライ 5:1-10、マルコ 10:35-45* 讃 美 歌:352(1-3),同(4-6)番、増補版34番

10月6日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第20主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:   神様。あなたは愛です。そして私たちは、あなたに祝福され、あなたにかたどって造られたものです。私たちが御心に従い、互いに助け合い、愛し合うことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン 〇 聖霊降臨後第20主日 説教 (説教要旨)         「 神 の 国 」          創世記2:18-24 ヘブライ1:1-4,2:5-12 マルコ10:2-16 当時の結婚は、現代のものとは随分違っていました。社会は男性中心でありますし、女性は保護されるべき存在であり、時には財産の一部のように考えられていました。結婚も当事者間の個人的な意思や同意よりも一族の存続が重視されていたようです。ですから、基本的には夫は妻を所有物のように扱い、妻を気に入らなくなれば理由をつけて離縁状を渡せばいつでも追い出すことが可能だったのです。これは男性だけに認められた権利でした。質問者たちは《モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました》(10:4)と答えているように、離縁状による「正当な離婚」と考える風習があることを知っています。承知の上で、主イエスに問答を仕掛けているのです。 これに対する主の答え《あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。》(10:5-9)は、質問者たちが言うように律法に定められている離縁状をもって正統に妻を離婚するという手続き-夫が妻を気に入らないなどという身勝手な理由で気まぐれに結婚を終わらせようとする一方的な特権-を無効にするものでした。主イエスは結婚とは人が勝手にくっついたり離れたりするものではなく、神によって備えらえた恵みであるということを彼らに思い起こさせようしているのです。 長年キリスト教の歴史では、ここをもとに離婚の禁止を強調する傾向が強かったと思いますが、私はそのように用いることには懐疑的です。共に生きることが祝福とはいえない状況になったとき、別の道を歩むという選択も許されていると思います。大切なのは、どのような時もお互いを固有の人格として敬意をもって遇することではないかと思うからです。そしてこれは、男女の関係だけでなく、大人と子どもの間でも大切にされるべきことだと思います。13節からの物語ではまたしても弟子たちが自分たちの無理解を露呈する事件が起こります。子どもたちを祝福してもらおうとして主のもとへ連れてきた人たちを叱ったのです。これに対して主は憤り《子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。》(10:14-15)と言われました。弟子たちにしてみれば、子どもたちのような半人前、小さな者たちは主イエスの側にいるべきではないと考えたのかもしれません。当時の常識ではそうかもしれません。しかし、主イエスは違います。主の前では女と男が平等であるように、子どもと大人も平等なのです。一人一人が唯一の存在として愛され、祝福されている者であると主は示されます。 「神の国」とは神が愛されている者たち、神に愛されていることを知る者たちのもの。主は弟子たちにも今日この物語を福音として聞いている私たちにも「あなたたちもこの幼子たちのように神の子どもだ。神の子として生きなさい。」と呼びかけてくださっているのではないでしょうか。(岡田)                  《来週の礼拝》                               #10月13日 午前10時30分 聖霊降臨後第21主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「富を積む」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:蔵谷俊夫さん*礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん*聖  書:アモス 5:6-7,10-15、ヘブライ 4:12-16、マルコ 10:17-31* 讃 美 歌:188番、370番、増補版34番