2025

10月12日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第18日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:全能の神様、あなたが創られたものは、憐れみによって良いもので満たされています。あらゆる危険から私たちを守り、心も体も健やかに、感謝をもって託された働きに励むことができるようにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第18主日 説教          列王記下5:1-3,7-15 テモテ二2:8-15 ルカ17:11-19 「 途中で 」 《イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた》(17:11)と物語は始まります。サマリアとガリラヤの間とわざわざ地名が明記されているのは、福音が背景や社会的地位に関係なく、すべての人々に向けられていることを示しています。 ここで主は《イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください》(17:13)と呼びかけられます。これは病人たちが主イエスに神の権威を認め、その治癒力と病を支配する力に対する敬意と信頼を持っていることを示しています。彼らは、病に冒されただけでも辛く苦しいはずなのに、共同体からはじき出され、愛する者たちとの断絶、そして自らを“汚れた者”と言い現わさなければなりませんでした。そのような状態から自分たちを助け出し、解放する力ある方が目の前に現れたので、必死に声をあげたのではないかと思います。この呼び声に応えて、主はただ一言《祭司たちのところに行って、体を見せなさい。》(17:14)と言われました。すると行く途中で彼らは清くされたのです。彼らの願いはかない、病と苦しみから解放されました。 このうちのひとりは、自分の身に起こったことを知ると、大声で神を賛美しながら主のもとへと戻り、ひれ伏して感謝を表します。 ひれ伏すという行為は、深い敬意と服従のしぐさであり、当時の文化的背景では、特に身分の高い人に対して敬意と感謝を示す一般的な方法でした。この人は、癒されたことを知ると喜びに溢れ、主イエスの権威と力が神からのものであると確信したのです。主はこの人を迎えながら《清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来たものはいないのか。》(17:17)と言われました。ここで明らかになったように、10人の病人のうちサマリア人はひとりだったのです。 平時、異邦人との混血ということで差別を受けていたサマリア人は純潔を良しとするユダヤ人と共にいることはありません。しかし、この境界の場にあって、同じ病気に苦しんでいる者同士、共に生きていたと推測できます。ところが、同じ病を得ていた者同士ですがユダヤ人であればユダヤの祭司のもと、サマリア人はサマリア人の祭司のところに行かねばなりません。それぞれがそれぞれの属するところの祭司によって「清くなった」という再認定を受ける必要があるからです。彼らはそれぞれの共同体に復帰することは出来ても、癒されることによって、共にあり続けることができくなったのでした。とても皮肉なことです。 主イエスは神の身分に固執されず、真の人間としてこの世に生まれ、マリアとヨセフの庇護のもと成長し、ひとりのユダヤ人男性として生きておられました。そして、洗礼者ヨハネの活動に触れ、時が満ちたことを悟られるとメシア(救い主)としての歩みをはじめられます。そして、ユダヤの全土からサマリアの地域など、各地に赴き様々な人たちと出会ってくださいます。そこには、人種や属性による隔ての壁はありません。そして、ご自身が痛みを負い、その命を十字架に差し出すことによって、神の憐み、罪の赦し、愛はすべての人に注がれるということを示してくださったのです。《立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。》(17:19)と主が告げられた時、戻ってきた人は新しい喜びを知ります。それは自らに起きた出来事が誰によってなされたかを気づかされるだけなく、まさにその方が自分の隣人となってくださったという喜び、共に生きる/生かされる喜びです。(岡田)             《 来週の礼拝 》                               #10月19日 午前10時30分 聖霊降臨後第19主日 礼拝 *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「すぐではないいつどうにか 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん *礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:創世記 32:23-32 (旧56), テモテ手紙二 3:14-4:5 (新394),ルカ 18:1-8 (新143)* 讃 美 歌:158番(1-3)、365番(1,4,5)、増補版 16-1番          

10月5日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第17主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:慈しみと憐れみに溢れる神様。私たちが虚しい時に満たし、信仰が弱い時に強め、愛が冷めた時に温めてください。御子に倣って隣り人を愛し、仕える熱い心を私たちに与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第17主日 説教   ハバクク1:1-4,2:1-4 テモテ二1:1-14 ルカ17:5-10 「信じて委ねる」  《わたしどもの信仰を増してください》(17:5)という言葉が弟子たちから出てきた理由としては、彼ら自身、主が語られた躓きは避けられないという話しを聞きながら自らの限界を痛感させられたからではないかと思います。この願いには、深い知識、豊かな知恵、慎み、おおらかさ、揺るがない精神、など非の打ち所のない人としての成熟した状態へのあこがれのようなものが見えます。大きな心と深い信仰があれば、主が言われるような人物になれるだろう・・・という思いです。これには、私たちも共感し同意できそうですね。しかしながら、このような考え方は、主イエスが教えられていることとは一致しないということが《「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(17:6)という言葉によって明らかになります。 ユダヤの文化の中で、からし種はことわざの中で非常に小さなものを表すためによく使われていました。また、この地域によく見られる黒桑の木は、その深い根と回復力で知られています。だからこそ、それを根こそぎ引き抜くというイメージは、信仰によって成し遂げられる、一見不可能に思える業を象徴しているのです。《『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。》というのは誇張した表現ですが、信仰の奇跡的な力を強調しています。海は混沌と未知を象徴するものとして用いられることが多く、神の被造物に対する主権を示す背景となっています。もちろん海に木を植えるという行為は不可能なことですが、神への信仰を通して得られる超自然的な可能性を示唆しているのです。 この比喩は、信仰の力を、その量ではなく質、そしてその信仰の対象である神へと目を向けるようにと私たちを促します。つまり、弟子たちの考えが見当違いであった理由は、《わたしどもの信仰》という言葉に表れているように、信仰を獲得するものように理解している点です。神の恵みとして与えられるものを自分の力で勝ち取るようなイメージです。自分の力量、あるいは自分自身から全てがはじまるように考えるところが、そもそもの躓きでなのだ、と主は教えられるのです。《信仰》とは、信じることだけではなく、行動と従順が伴います。桑の木比喩は、信仰には神の約束に基づいて行動することが必要であることを示しています。つまり信仰は、神の主権と、不可能を可能にする神の能力を理解することに根ざしている必要があるというのです。そう《からし種一粒ほどの信仰》というのは、神への信頼と服従、信じて委ねるということなのです。 この物語は、神に従うということは、報酬や承認を求める気持ちではなく、愛と尊敬の気持ちからであるべきであり、たとえ私たちの奉仕に対して感謝を受けられないとしても、奉仕できるのは神の恵みによるものとして、愛の応答なのだと語りかけます。信仰は、自分の信念や強さ、立派さによるものではありません。決して贖うことのできなかった罪を主イエスによって贖われ、赦され、罪赦された罪人として赦しと恵みのうち生かされる喜びを知らされた私たちは、愛されているからこそ愛する者、赦されているからこそ、赦す者として生きるようにと促されているのです。 (岡田)          《 来週の礼拝 》                               #10月12日 午前10時30分 聖霊降臨後第18主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「途中で 」*奏  楽:井上志乃さん*聖書朗読:青木比呂子さん  *礼拝当番:楢戸恵子さん*聖  書:列王記下 5:1-3,7-15 (旧583), テモテ手紙二 2:8-15 (新392),ルカ 17:11-19 (新142) * 讃 美 歌:289番、357番、増補版16-1番

9月28日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第16主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:神様。あなたは正しく、憐みに富んでおられます。みことばを聴き、みこころを尋ね求める私たちにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第16主日 説教                    アモス6:1,4-7 テモテ一6:6-19 ルカ16:19-3 「 憐れみ 」 今日の物語は、金持ちとラザロという人物が登場する物語です。「ラザロ」という名前はヘブライ語のエレアザルに由来し、「神は助けてくださった」という意味です。たとえ話の中で名前のついた人物が用いられるのは、珍しくこの物語に特有のものです。おそらくこれは、より深い個人的なつながりを示唆し、物語の現実性を強調しているのです。つまりラザロは、このたとえ話を聞いている人達の周囲にいる疎外され、困窮している人々を象徴しているのです。 聖書の時代、皮膚病は儀式上の不浄や共同体生活からの排除につながることが多くありました。また、その腫れ物を犬がなめている姿は、彼の貧困と社会から疎外されている様を一層鮮明にしています。卑しく汚れていると考えられていた犬たちが、金持ちよりもラザロに対して多くの気遣いを示している様を、神学的に見るとルカによる福音書全体に見られる逆転のテーマ、つまり最後の者が最初になり、最初の者が最後になる(ルカ13:30)ということを強調し、神が思いがけない手段を使って慰めを与える方法について私たちに考えるよう促します。 場面が死後の世界へと変わると、金持ちとラザロの位置が逆転します。死んでしまった金持ちが目を上げると、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれたラザロが目に入ります。炎の中でもだえ苦しんでいる金持ちは、とにかく僅かな水でも得たいと願い、アブラハムに向ってラザロを自分のもとへと遣わしてくれるようにと頼みます。しかし、答えは厳しいものでした。なぜ物語の金持ちは、ここまでアブラハムから拒絶されたのでしょうか。問題は、彼がお金持ちだったから、という理由ではありません。生前、彼の家の門前には、できものだらけの貧しいラザロが横たわっていました。死後の世界でのやり取りを見ると、金持ちはラザロという人がどのような人物で、彼が助けを必要としていることを知っていました。しかし、犬ですらもラザロに関心を示しているにも関らず、金持ちは生きている時にはラザロには目もくれず、助けることも声をかけることもせず無視していたのです。そして浪費については自分の差配で何とでもなる、自分のしたいようにすることに対してなんの躊躇もありませんでした。 もしこの金持ちが自分に富を与えてくださったのが神であるということに少しでも思いが向いていたならば、恵みに対する感謝の思いがわずかでもあったならば、自分が手にしていた多くの富を誰かとわかちあうことができたかもしれません。しかし、彼は自分のために備えることはしても、神への感謝や隣人に対する憐れみを持つことがなかったので、ラザロのこともほったらかしでした。 主イエスはこの話を聞く者たちが、神の言葉に真剣に耳を傾け聞いているだろうか?と問われているのです。このように問われて、当時の人々も私たちも恐れおののきつつ、うなだれるしかないかもしれません。しかし、だからこそ、主イエスはこの世に降られて来たのです。私たち人間が決して越えることができない深い淵を越えて、神の愛の懐へと私たちを救い出してくださるために。神は主イエス・キリストを通して私たちに赦しと慰めと愛を示してくださいました。罪赦された罪人として、キリストに愛された者として生きる/生かされる喜びを私たちは知らされています。この大いなる恵みを自分のもとで停滞させていてはいけません。神の業は人を頼みとして広がりを持ちます。誰かを通して私に伝えられたこの喜ばしい福音を、私たちはこの世に対して、喜んで差し出し、伝え、共に喜ぶ者として生きるようにと押し出されていくのです。(岡田)  《 来週の礼拝 》                               #10月5日 午前10時30分 聖霊降臨後第17主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「信じて委ねる 」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん  *礼拝当番:秋田直枝さん*聖  書:ハバクク 1:1-4,2:1-4 (旧1464), テモテ手紙二 1:1-14 (新391),ルカ 17:5-10 (新142) * 讃 美 歌:365番、410番、増補版 16ー1番      

9月21日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第15主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」  私たちの間におられる神様。私たちは互いに愛し合うように、御名のもとに集います。悪の道から遠ざけ、私たちの思いをあなたの知恵に向け、御子の輝く恵に心を向けることができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。    ♪ アーメン 《 来週の礼拝 》                               #9月28日 午前10時30分 聖霊降臨後第16主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「憐れみ 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:楢戸恵子さん *礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:アモス 6:1,4-7 (旧1436), テモテ手紙一 6:6-19 (新389),ルカ 16:19-31 (新141) * 讃 美 歌:166番、460番、増補版 38番 

9月14日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第14日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:慈しみと憐れみに溢れる神様、あなたは迷う者を連れ戻してくださいます。あなたに背くすべてを退け、命をはぐくむすべてに従うことができるように、あなたの民を愛のうちに守ってください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第14主日 説教                    出エジプト32:7-14 テモテ一1:12-17 ルカ15:1-10   「 大きな喜び 」 主イエスがこれらのたとえ話を語られた背景には、ファリサイ派や律法学者たちからあがっていた批判の声がありました。彼らは徴税人や罪人たちが主イエスの話を聞こうと集まって来るのを見ると“あのような罪深い者たちと関わりを持つなんて・・・”と主が彼らを受け入れ、食事を共にされることを非難していました。彼らは不道徳な人々だけでなく、不正直な行為を含むことになる職業や、定まった儀礼を守ることの出来ない生活をしている人、異邦人と関わりを持つ生活をしている人々を“罪人”と見なしていました。遊牧の民である羊飼いたちも「地の民」と呼ばれ、ファリサイ派の人々は関わりを避けていました。しかし主イエスは、誰とでも食卓を囲み、共に食事を楽しみ、語らい、恵みをわかちあわれます。人と人との間にある隔ての壁を取り払い自由自在に振舞われるのです。 主がたとえを用いて語られているのは、単に宗教エリートたちの考え方を否定するのではなく、無意識のうちに彼らが陥っている罠から救い出すためのように感じます。やりとりの重要なポイントは、救いがどこから来るのか、誰が救いの主導権を持っているのかという点です。 ファリサイ派や律法学者たちは、律法を守り、忠実に従うことによって救われる、という考え方を尊重していました。しかしこれは、自らの業(わざ)によって神に近づける、あるいは救いに到達できると思い込んでしまう危険性があります。時折、神に従っているようであっても愛を忘れてしまっているような彼らの言動が見られますが、そのような時、人は神の深い憐れみや愛の世界から自分たちの思い描く別の道、罪の道に彷徨いだしている状態だと言えるでしょう。 たとえに出てくる群れから見失われてしまった一匹の羊、見失われてしまった1枚のドラクメ銀貨は、《悔い改める一人の罪人》を指しています。この悔い改める一人の罪人とは誰のことでしょうか。それは、主が食卓に招かれた一人ひとりであり、ファリサイ派や律法学者たちでもあり、この物語を福音として聞こうとしている私たち一人一人のことです。主はご自分の話を聞きながら「自分は大丈夫」、そう思い込んでいるような人々に対して、あなた自身が見失われていたにもかかわらず見いだされた存在なのだ、ということを教えられるのです。そして、たとえ私たちが神から遠く離れてしまっていることに気づかなくても、失われていることに気づいていなくても、神は物語に登場する羊飼いや女性のように、決して諦めず、失われたものを見いだそうと真剣に私たちに向き合ってくださるお方なのだ、と力強く語られるのです。そして、見つけ出したときには天には大きな喜びがあるのだと。 《人の子は、失われたものを捜して救うために来た》(ルカ19:10)とあるように、私たちは“主が私たちを/私を見いだすために来てくださった”ということをあらためて知る必要があります。そして、主の愛の眼差しの中で今生かされている喜びを共に祝うようにと招かれていることにも。そのために御子主イエスは世に下り、その命を十字架に渡すことによって私たちに対する愛を顕(あきら)かに示してくださいました。 私たちはこのみ子を通して与えられた赦し、救い、永遠のいのちへの約束に気づかされたからこそ、教会に連なり礼拝へと導かれています。神を知る恵み、神に知られている恵み。私という一人の罪人が神へと立ち返ることが出来たことを神は喜んでくださっています。その喜びを私たちも共に喜ぶ者でありましょう。(岡田)            《 来週の礼拝 》                               #9月21日 午前10時30分 聖霊降臨後第15主日 礼拝 *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「それは正しいか 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:楢戸恵子さん *礼拝当番:青木比呂子さん*聖  書:アモス 8:4-7 (旧1439), テモテ手紙一 2:1-7 (新385),ルカ 16:1-13 (新140) * 讃 美 歌:170番、401番、増補版 38番

9月7日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第13主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:主なる神様。私たちが行うすべてを助け導いてください。私たちの業がすべて、あなたのうちに始まり、続けられ、終えることができ、そのすべてにおいて聖なる御名をあがめ、永遠の命に至ることができるようにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第13主日 説教   「よりどころ」                 申命記30:15-20 フィレモン1:1-21 ルカ14:25-33 主イエスは再びエルサレムへ向けて歩き出されました。その後には多くの群衆たちがついてきています。しかし、ここにいる誰一人として、主イエスが見つめているその先に十字架の苦難がある事に気づいていません。それは弟子たちも同様です。主は振り返り《もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない》(14:26)と言われました。 もちろん主は “あなたの父と母を敬え”という十戒の教えや“互いに愛し合いなさい”という教えを無効化されようとしているのではありません。聖書の物語の中にも、親子間や夫婦間の間で、愛しすぎたことによって起こるさまざまな事件が繰り返し登場します。その中でも、イサクと妻リベカと二人の息子たち(エサウとヤコブ)の物語は、今日の福音を読み解く鍵として一つのヒントを与えてくれるのではないかと思います。 イサクは父アブラハムから受け継いだ祝福を次の世代へとつなぐために、自分のお気に入りだった長男のエサウを呼んで祝福を与えようと考えていました。しかし、妻のリベカは弟のヤコブの方をより多く愛していましたから、エサウではなくヤコブに祝福が与えられるように、一計を案じます。それによって、ヤコブは首尾よく父イサクから祝福を受けるのですが、それによって兄エサウから命を狙われることになります。この物語に現れているのは、父と母がそれぞれ長男と次男を偏愛し、自分たちの偏った愛情を成就させるために駆け引きを行い、それに加担した兄弟も含めて、一つの家族が結局バラバラになってしまったという事例です。このように、私たちは家族や親しい間柄の中で、偏愛することや行き過ぎた情をかけるが故に、お互いの関係の中に破たんをもたらすことがあるのです。 今、エルサレムをめざし、そこで十字架という重荷を担う決意をされている主イエスは、ご自身の決意こそが人々に救いをもたらすものであることを知っておられます。だからこそ、集まってくる弟子志願者たちに単なる「愛着」や「追従」で従ってくるのではなく、ご自身と同じような覚悟を持つことを求められておられるのです。その覚悟とは、どのようなことがあっても父なる神のみ心に忠実に従う、という決意です。 この《従う》ということが、どのようなことであるか?をしっかりと考えることを促すために主は《自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない》という厳しい言葉を投げかけておられるのです。この言葉は、私たちに重く響くことでしょう。みことばに耳を傾け、その呼びかけに応え、自分の十字架を背負って主に従っているつもりでも、本当のところで、その判断が出来るのは私たちではないからです。また、私たちが確証を求めて努力しても、それは救いの条件にはなりません。私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架での贖いの死、そして復活以外にはありません。 つまり主は“私/私たちには自分を裁くいかなる権利も与えられておらず”、“自主性と自由をもつ存在ではあっても、私/私たちは神からいただいた命を生かされている者である”ということを忘れるな、と諭されているのです。それと同時に家族や親しい者たちに対する言葉も、私たちが持っている情や愛の限界を指摘し、執着するのではなく、お互いを超えた存在/神を通して結び合う関係があることを教えてくださっています。(岡田)              《 来週の礼拝 》                               #9月14日 午前10時30分 聖霊降臨後第14主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「大きな喜び 」*奏  楽:井上志乃さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん *礼拝当番:小川敦子さん*聖  書:出エジプト 32:7-14 (旧147), テモテ手紙一 1:12-17 (新384),ルカ 15:1-10 (新138) * 讃 美 歌:151番、371番、増補版…

8月31日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第12主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:神様。わたしたちは、ただあなたの恵みによってのみ、救われます。思い上がりを捨てて、あなたへの畏れと感謝を胸に、互いに助け合って歩むことができますように。  救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第12主日 説教   「報いを望まずとも」                 箴言25:6-7a ヘブライ13:1-8,15-16 ルカ14:1,7-14 主イエスがここで教えようとされているのは、地位や承認を求める文化的規範への挑戦です。民衆と同じ地平に立ち、主が伝えようとされていることは、常に「あなたの救い」のための説教です。この視点から、今日の物語を聞くとすれば、ここで語られていることはどういうことでしょうか?それは、神の御前においては、何人も自分をランク付けしてはいけないと言うことです。婚宴は神の国の譬えです。招かれた客の中で、自分がどのあたりの地位にあるだろうとか、あの人より自分は上か下か?など比較することや良い席であるとか、悪い席であるとか選り好みやランク付けをしてはいけない、と主は言われるのです。なぜなら、上のほうに座れる人間などいないからです。 そもそも私たちは、救われるに足る者ではありません。天の祝宴に招かれるに足る者ではありません。にもかかわらず、こうして主の御許に招かれています。神の宴席に招かれているのですから、末席で充分なのです。想像してみてください、おずおずと末席に座っている自分を。そして、「さあもっと真ん中に来なさい」と語りかけられたとしたら、どのように応えることができるでしょうか?おそらく多くの人は「そんな資格はとても自分にはありません」と応じるのではないでしょうか?しかし、あなたに語りかける声は続けて言います。「あなたに資格があるから言っているのではない。わたしはあなたにわたしの命を与えた。それほどにあなたは大事な賓客なのだ。あなたはそれを受け入れた。だから悪びれることなく、真ん中に来なさい。もっと晴れがましいところに来なさい」と。そうです。私たちは、主イエスご自身の招きによってこの礼拝に、恵みの祝宴に導かれているのです。 後半のたとえ話も興味深いものです。主がここで「貧しい人」「足の不自由な人」「体の不自由な人」「目の見えない人」と列挙されている人たちは、当時はおよそ宴会などという晴れがましい社交の場には、まず、縁がない人たちです。というのも彼らはその日、その日を生き抜くだけで精一杯。日ごとの糧を得るために、道ばたに座って憐みを乞う者もいました。「その人たちを招いてもお返しができない」という、理由で、あなたの宴会に招待しなさいと、主は言われます。現実にはとてもあり得ないことです。 主イエスは「宴会の教え」の体裁を取りながら、救いへの招きがどんなものかを説いておられるのです。そしてその内容は主イエスが実際にガリラヤの町々、村々で実践されていたこと。信仰とは「恵みを無償で頂くこと」、つまりタダです。タダより怖いものはないと言いますが、厳密にいえば主は一つだけ見返りを求められます。それは「信じて受けよ」という見返りです。 タダだから/無償だから頂いても頂かなくてもいいのだ、と人は思うかもしれません。実際に、多くの人たちがそう考え、そう振舞っています。しかしこの恵み/救いには高価な代償が必要でした。それは主イエス・キリストのいのち。主は、私のため/私たちのために十字架にその身を委ねられます。私たちはこれに対して何のお返しもできません。何の償いもできません。私たちにできることは、お返しができないことをよくよくわかりながらも、何の見返りも求められない、主イエスによる救いへの招待を、ただ受けること。信じて受け、感謝して受け、その宴席に連なることです。そう、「お返しができない者だからこそ、招かれている」とは、私たちのことなのです。(岡田)  《 来週の礼拝 》                               #9月7日 午前10時30分 聖霊降臨後第13主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「よりどころ 」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:小笠原里子さん *礼拝当番:秋田直枝さん*聖  書:申命記 30:15-20 (旧329), フィレモン 1:1-21 (新399),ルカ 14:25-33 (新137) * 讃 美 歌:175番、328番、増補版 38番  

8月24日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第11主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:神様。御子は、病める者をご覧になり、憐れみ、癒されました。今、御前に集う私たちを、福音によって励まし、助け、導き、主と隣人に仕える者としてください。  救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第11主日 説教(教区講壇交換 河田礼生牧師(恵み野教会・函館教会))     「善い言葉が働く日」                 イザヤ書58:9b-14、ヘブライ人への手紙12:18-29、ルカによる福音書13:10-17 わたしたちが教会に集まる理由は様々です。しかし、誰もがみ言葉を聞くために集まっているのではないでしょうか。それが主の教える安息日です。 イエス様はある安息日に会堂で教えられていました。これはつまり礼拝です。わたしたちのように、イエス様も安息日には会堂で礼拝を守られていたのです。それゆえに、この時もイエス様が共にいてくださっているといえます。さて、会堂には病に苦しむ女性が来ていました。そこでイエス様は「婦人よ、病気は治った」と言葉をかけ、癒されます。会堂に集まっていた群衆はこの出来事に「自分も治してもらえる」「自分を悩みから解放してくれる」と、希望を見出したことでしょう。この癒しは私たちにも希望となります。 しかし、その教会の会堂長はイエス様のみ業を見て、「安息日に治してもらってはいけない」と群衆たちに言うのです。彼は教会の秩序を守るために、そう言う必要がありました。モーセの十戒に定められた安息日は当時の教会において、重んじられなければならない戒めだったのです。なぜなら、律法を遵守する事で、人々は神様の民であり続ける事できたからです。出エジプト記の31章には「だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。」「必ず死刑に処せられる」と安息日を破った場合の罰則も規定されています。それゆえに、会堂長は安息日を守るように伝えたのです。イエス様のみ業に腹を立てたのは、自らの会堂で安息日が破られたゆえに、神様の民から外されてしまう恐怖があったからです。会堂長はこの会堂を守りたいという責任感と親切心から語りかけたのです。 しかし、彼は本当に良いものを理解していませんでした。それは安息日が、仕事をしてはいけないという以上に、神様の祝福を受けることを求められている日であることです。忙しかったり、煩わしさの中で祝福を受けることがおろそかになってしまうから休むのです。 私は神学生のときにこの恵みを実感する経験をしました。神学生になると、日曜日には教会で実習を行うようになり、休む暇がなくなってしまいます。すると不思議なことに、教会でみ言葉を語っているのに、むしろみ言葉からはどんどん遠のいているように感じたのです。そこで私はみ言葉を受けることを求めるようになり、実習後に母教会の夕礼拝に向かうようになりました。実習で忙しくなるほど、休んで神様の祝福を受ける安息が必要だとこの身に実感したのです。 神様は確かに七日目に休まれたけれども、それだけでなくその日を祝福する働きをされました。むしろ安息日にこそ、神様の祝福は働いています。それはイエス様の語るみ言葉であり、「婦人よ、病気は治った」という祝福の言葉です。 教会にくると、奉仕やお仕事でますます疲れたり、煩わしさを感じることもあるかもしれません。忙しくて1日働かずにいる事は難しい事でしょう。しかし、礼拝の時間だけは是非、他の煩わしさから離れて、神様のみ言葉から祝福を受け取って過ごしましょう。その時、私たちは神様の喜びへと迎えられます。安息日にイエス様によって癒された女性も、イエス様のみ言葉を受けることで、神様を賛美する喜びへと招き入れられました。 あなたは今日ここで、み言葉による心と体の癒しを受けました。イエス様の祝福、良き言葉があなたに働き、あなたを解き放ちました。共に神様をほめたたえましょう。アーメン。         《 来週の礼拝 》                               #8月31日 午前10時30分 聖霊降臨後第12主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「報いを望まずとも 」*奏  楽:滝田裕美子さん*聖書朗読:清水美年子さん                                                                               *聖  書:箴言 25:6-7a (旧1024), ヘブライ 12:18-29 (新418),ルカ 14:1,7-14 (新136) * 讃 美 歌:213番、293番、讃美歌21…

8月17日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第10主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 永遠の裁き主である神様。あなたは正義を愛し、抑圧を憎まれます。あなたは真理を熱く願い、それを伝えるために私たちを召し出されます。あなたの僕や預言者たちに倣い、私たちの信仰の先駆者であり完成者であるイエス・キリストを見上げつつ、この世の争いと欲の犠牲者たちの側に立つ勇気をお与えください。 救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第10主日 説教 エレミヤ23:23-29 ヘブライ11:29-12:2 ルカ12:49-56 「時を見分ける」 8月1日の夜、「デマと差別が蔓延(まんえん)する社会を許しません」と訴える街頭アピールが東京・新宿駅前で行われました。スピーチのために登壇した方の中に、髙井ゆと里(たかいゆとり)さんという方がおられます。彼女はここでのスピーチを依頼されてから、どのような発言をしようかと悩まれた結果、研究者であり、アクティビストでありクリスチャンである自分ができることは「祈ること」と言われて、短いスピーチの後で信仰を持たない方への配慮のことばを語られたのち、少しの間、私と祈りの時間を共にして欲しいと聴衆に呼びかけられてから、祈りを捧げられました。この祈りを聞いた時、私は今日の福音の日課を思い出しました。 《わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。》(12:49-51)。ここで言われている分裂とは、主従関係の崩壊や誰もが自分勝手に振舞っても良いということではありません。もしも、力ある人が弱い立場の人に「文句を言わずに、言うとおりにしておけばよい」と命令したとします。何も知らない人が、この二人の関係をみれば争いも無く平和に見えます。けれども、いつも命令ばかりされている人の心の中には、屈辱や命令をする人に対する憎悪、悪意があるかもしれません。もし、そうであればこれは真の平和ではなく、見せ掛けの平和。いびつな関係です。 《父は子と、子は父と。母は娘と、娘は母と。しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して別れる》(12:53)とは、それぞれが家族という一つの枠にあっても、個別の自由な存在であることを示しています。天地創造のはじめに、極めて良いと神が満足されていた頃の世界の姿は、一つ一つのものがその固有の命の輝きをもち、互いにその命を尊ぶことができていました。ところが、人は神のようになりたいという誘惑に負け、罪を犯したときからその関係を破たんさせてしまいます。 この壊れてしまった関係を修復するために、主イエスはこの世に降られたのです。十字架という苦しみを神自らが担うために。これは、私たちに対する神の愛そのものです。私たちは、この神の愛の業を知ることによって、“神と私”という関係に招かれていることを知ることが出来ます。そして、この天地を貫く縦のラインがはっきりと構築されることによって、地平における“あなたとわたし”という関係を祝福の内に築くことが出来るのです。 主イエス・キリストはご自分の十字架での死をはっきりと悟り、それについて語られながら、一歩、また一歩と歩みを進めつつ、聞く耳を持つ者たちに、神がこうまでして私たちに悟らせたいこと、それに耳を傾けるように促されているのです。つまり、主は神が求めておられる真の平和とは、単に揉め事や争いが無い状態ではなく、一人ひとりが自由であり、他の誰からも抑圧されること無く、神との正しい関係を生きている世界。そして互いの違いを認めつつ、共に生きる/生かされる世界なのだと。 (岡田)                   《 来週の礼拝 》                               #8月24日 午前10時30分 聖霊降臨後第11主日 礼拝 *司  式:河田礼生牧師*説  教:河田礼生牧師「善い言葉が働く日 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:小川敦子さん *礼拝当番:楢戸恵子さん*聖  書:イザヤ 58:9b-14 (旧1157), ヘブライ 12:18-29 (新418),ルカ 13:10-17 (新134) * 讃 美 歌:149番、324番、讃美歌21 561番

8月10日「今日の礼拝堂」

平和の主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 全能の神様。真理と平和への思いはすべてあなたから与えられます。すべてのあなたの子どもたちの心に平和を愛する心を燃やし、あなたの知恵で諸国の指導者を導き、御国が平和のうちに前進し、全地があなたの愛を知る知識で満たされるようにしてください。あんたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○平和の主日 礼拝 説教                   ミカ4:1-5 エフェソ2:13-18 ヨハネ15:9-12          「主が示される道」 先日、帯広の聖書に親しむ会の後、帯広メノナイト教会で行われた平和集会に参加してきました。お話しくださった月下美紀さんは、鹿追在住のアーティストで84歳になられる方。おひげの似合うチャーミングなおじいさんという印象ですが、その経歴は4歳の時に広島で被爆、大人になられてからは大企業で海外支店を任されるような立場になられたのに、会社を辞めて放浪の旅にでたり、無人島で全財産を失ったりと波乱万丈な生き方をされてきた方でした。この4月にも脳梗塞を患われたとのことですが、右半身の感覚は麻痺していても筆を握り、動かすことは出来るので我流の墨アート作品作りをどんどん進めて、この夏の個展だけでなく来年の個展の予定も組んでおられるとのことでした。 ワークショップでは墨を筆や指、歯ブラシを使って紙に落とし、「遊び」という漢字を繰り返し書かれていくうちに、周囲で見ている私たち自身もなんだかウキウキししてくる感覚を味わいました。「争わない、自由なアートをやる。」とおっしゃる月下さんの芯には、被爆など様々な体験をする中で、自分が心地よく生きる知恵をアートにしたということがあるようです。あいさつ文にも「人はそれぞれ考えや感覚が違うので、押しつけたり、批判したり、争ったりしようとは思っていません」とありました。時間と空間を共にする者同士が自由にのびのびと遊び心を感じることができた数時間でした。そして、まじめに平和を語り合うことが「平和集会」と思い込んでいた私自身の思い込みを見事に打ち砕かれ、論じるだけでなく、実践することの尊さと必要を教えられたように感じています。 今日、私たちが聞いた福音は《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい。》(15:12)という主イエス・キリストの言葉です。また、日課の続きには《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。》(15:16)と主による選びが先んじていたことが弟子たちに宣言されています。すべてに先んじて、主イエスご自身が弟子たちを知り尽くし、ご自分の愛すべき者たちとして選び取ってくださっていたのです。 今、私たちが生かされている社会、社会というと大きすぎれば、自分が生かされている半径5メートルぐらいを想像してみましょう。その空間は果たして平和と言えるでしょうか?そうであるならば、大いに喜び祝いましょう。もし、そうでないのであれば、少しでも平和に近づくために自分にできることは何か?と考えてみましょう。そして、平和を実現するために出来そうなことから始めてみませんか?それぞれに与えられている賜物も違いますし、力も、経済力もないかもしれません。でも、ぶどうの枝葉が根に、幹に流れるいのちの水を得ることによって、枝を伸ばし、葉を茂らせ、豊かな実りをもたらす様に、私たちは主イエスにつながることによって、真の愛を知り、真の命に生きる者とされています。主イエスが出会う人、ひとり一人と共におられたように私たちも共に生きる者として、相手の存在を認め、尊び、仕え合うことができますように。そして、キリストの愛が、平和が、赦しが、私たちの心の隅々にまで、行き渡り、それぞれの生かされている場において平和を実現する者であることができますように。 (岡田)           《 来週の礼拝 》                               #8月17日 午前10時30分 聖霊降臨後第10主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「時を見分ける 」*奏  楽:井上志乃さん*聖書朗読:小笠原里子さん *礼拝当番:清水美年子さん*聖  書:エレミヤ 23:23-29 (旧1221), ヘブライ 11:29-12:2 (新416),ルカ 12:49-56 (新133) * 讃 美 歌:168番、299番、讃美歌21 561番