July 2025

7月27日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第7主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 生きておられる全能の神様。あなたは私たちが祈る前から私たちの祈りに耳を傾け、思いと願いをはるかに超えて聞き届けてくださいます。あなたの豊かな憐みを注いでください。良心の咎を赦し、ただ御子のみが賜ることができる良きものを与えてください。  救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第7主日 説教              創世18:20-32 コロサイ2:6-15 ルカ11:1-13        「世界を包む祈り」 今日の福音の日課は、弟子たちが《わたしたちにも祈りを教えてください》(11:1)と願ったことにより、主イエスが「主の祈り」を教えてくださっている個所です。この祈りには個人の地平から始まって世界を包むダイナミックさがあります。主はこの祈りを神への信頼をもって祈るようにと命じられました。 「祈り」は信仰者にとって深呼吸のようなものだと言われます。「呼吸すること」が生きるために欠かせないように「祈りの生活」は信仰者に不可欠であるというのです。本当にそうだな、と思います。祈りはいつでもどこでも行うことができます。道具も何も必要ありません。ただ、「主よ」と呼び求めることから始められます。整った文章にならなくても、うまくまとまらなくても、心のうちにある思いを打ち明けることができます。そして、このような交わりを通していくつかの気づきが与えられ、癒しを与えられることもあるのではないでしょうか。 何度もご紹介していますが、毎週金曜日の午後9時からインターネット回線を用いてミャンマーを覚えての祈り会が続けられています。先日233回目の祈り会でした。日本ではもはやニュースにもならない状況ですが、ミャンマー国内では未だ凄惨な暴力が毎日起きています。3月の地震が起こった地域にも容赦ない空爆が繰り返されています。あまりにも多くのいのちが失われました。国内あるいは国外に出て避難民として生活することを余儀なくされている人たちも数え切れません。祈り会から生まれたアトゥトゥミャンマー支援という小さな団体は8月1日で設立から4年となります。祈りという営みから始まった支援活動は、地味で小さいものですが、細々ではありますがしたたかに継続しています。そして、来週、祈り会のメンバー有志がタイに逃れ、生き延びた子どもたちに折りたたみ傘とレインコートを届けるプロジェクトを決行します。 残念なことに、「そんなことにどのような意味があるのか?」と疑問を呈してくる方もおられるそうです。もっと合理的で有効な支援の方法もあるのではないか、と言われるのです。しかし私たちは、祈りをかさね、知恵を出し合い、自分たちの持てるネットワークを駆使しながら、相手のニーズを引き出し、出来るところからやっていく。つながり合った人との関りを大切にしていきながら、クーデータへの抗議の意味も込めて平和構築の営みを続けていきたいと願っています。バプテスト教会の川内牧師と共にアトゥトゥ帯広として呼びかけたところ、沢山の祈りと物資が寄せられました。皆さんの思いも込めて、集積所として奉仕くださる教会に向けて発送いたします。 弟子の質問にこたえる形で主イエスが教えてくださった祈りには、私たちが祈るべきことがらが網羅されています。父への感謝と賛美、信頼と希望、赦しの祈願ととりなし・・・これは、私たち信仰者がキリストの愛に生きる喜びを味わうことができる祈りでもあります。そして、主が私たちを愛し、赦された罪人として生きる道を拓いてくださりその道を進むための道標、世界を包む祈りです。 主の祈りを祈る度、私たちも神の愛を知る者として生かされており、主イエスによって示された愛の業によって罪を赦され、他者を赦し、愛する者として立てられていることを知らされます。《あなたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求めるものに聖霊を与えてくださる》(11:13)とあるように、神の慈しみによって赦しと愛に生きる者とされた私たちは、「祈りは必ず聞き届けられる」と信じ、あきらめることなく、執拗に祈る者であるようにと促されています。(岡田)          《 来週の礼拝 》                               #8月3日 午前10時30分 聖霊降臨後第8主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「すべては神の御手のうち 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:青木比呂子さん*礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:コヘレト 1:2,12-14,2:18-23(旧1034), コロサイ 3:1-11(新371),ルカ 12:13-21 * 讃 美 歌:398番、434番、讃美歌21 561番

7月20日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第6主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」 神様。御子キリストこそ教会の頭であり、土台です。主を信じ、みことばに聴き従い、希望から離れず歩むことができるよう、私たちを導いてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。    ♪ アーメン 《 来週の礼拝 》 #7月27午前10時30分 聖霊降臨後第7主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「世界を包む祈り」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:小笠原里子さん*礼拝当番:楢戸恵子さん*聖  書: 創世記 18:20-32(旧24), コロサイ 2:6-15 (新370),ルカ 11:1-13(新127)                                                                                                        * 讃 美 歌:増補35番 、364番(1,4,7,8)、 200番

7月13日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第5主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:   神様。御子の十字架と復活によって私たちは贖われ、永遠のいのちに与ります。あなたの愛と導きによって、私たちを世に遣わしてください。       救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第5主日 説教   「わたしの隣人とは」          申命記30:9-14 コロサイ1:1-11 ルカ10:25-37 この物語では、このサマリア人が半死半生の旅人を大変よく気遣いっている様子を生々しく、克明に伝えます。この人は、倒れている人を目にすると考えるよりも先に動きます。ぼろぼろにされて打ち捨てられている人への同情心が彼を動かしたのでしょうか。もちろんそれもあると思いますが、この人が動いたのは、傷んでいる人を救護しなくてはならない、という義務感もあったのでしょう。冒頭の問答で、誰もが知っている律法の教えの実践ですね。この人は、単に知識として律法を学んでいたのではなく、その心にも神の言葉を刻んでいたのでしょう。だから、彼は考えると同時に、否、考えるよりも先に行動できたのではないかと思います。 このサマリア人の振る舞いを見聞きする私たちは、隣人を愛するという時、そこにはその人に心を寄せる一時の気持ちの高ぶりだけでなく、冷静さや、組織力、様々な判断を下す能力などが必要であることに気づかされます。また、祭司やレビ人の振る舞いを見ると、憤り、非難したくなるかもしれませんが、彼らがそれに気づくことができなかったように、私たち自身にもそのような面があるのではないかとも考えさせられるのではないでしょうか。 すぐそこに、痛めつけられ、傷つき倒れている人がいても、目を逸らし、ルートを変えて遠回りした祭司やレビ人のように、私たち自身も立場、民族、過去、イデオロギーへのこだわり、偏見などによって、その人の痛みに思いを寄せることなく、むしろ無視することを正当化してしまっているかもしれません。あるいは見えなくなっていることにすら気づいていないではないでしょうか?私たちは私たちの行動によって食い止めることができたはずの多くの苦難を、心が動かされなかったためにそのまま放置してきたことを今思い知らされています。ガザをはじめとしたパレスチナの現状はその最たるもの、また日本において非正規滞在者とされてしまっている日本国籍を持たない人たちへの根強い偏見とバッシングについて、私たちはどのように受け止め行動するべきでしょうか? 主イエスはこの物語を通して、隣人愛の義務は人種や宗教の近さとは無関係であり、人間性と同じくらい広いという教訓を浮き彫りにしています。負傷した男性はおそらくユダヤ人だったでしょうが、彼の国籍が言及されていないことは重要です。彼は「ある人」であり、それだけです。サマリア人は彼を助ける前に、どこで生まれたのか尋ねませんでした。主は悲しみや困窮、同情や助けには国籍は関係ないと教えておられるのです。 そしてこの物語において、助け手をサマリア人とすることで、大きなインパクトを与えます。ユダヤ人たちとのやり取りの中に「サマリア人」という名称を持ち込んだのは大胆な試みです。それは、質問者がとうとう最後まで「サマリア人」と口にすることをためらったことからもよくわかります。主はこのたとえ話を通して、慈悲、愛、憐れみについては無制限。限界突破であることを示されます。そして、愛の実践においては、隔ての壁は取り除かれる、ということを教えられているのです。それは、何よりもご自身が肉体を持った人として、この世に降り、私たちと共に生き、友となられたことによって開かれた私たちの進むべき道そのものです。主は私たち人間がどれほど遠く離れていても互いに隣人となり得ることを示されているのです。(岡田)                   《 来週の礼拝 》                               #7月20日 午前10時30分 聖霊降臨後第6主日 礼拝 *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「わたしだけの恵み 」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:青木比呂子さん*礼拝当番:秋田直枝さん*聖  書:創世記 18:1-10a (旧23) 、 コロサイ 1:15-28 (新368)、ルカ 10:38-42(新127)      * 讃 美 歌:増補35番、402番…

7月6日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第4主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 私たちの主イエスの父である神様。あなたはシオン、私たちを守る町、慰めの母です。あなたの平和を世界中に広めるために、私たちの人生の旅路をあなたの霊が共に歩んでください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第4主日 説教           イザヤ66:10-14 ガラテヤ6:7-16 ルカ10:1-11,16-20      「平和の挨拶」  私たちの主なる神とイエス・キリストから恵みと平安とが私たち一同と共にあるように。 《収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい》(10:2)という御言葉は、献身者を募る際にしばしば引用される御言葉だと思います。私が通っていた地元の教会の掲示板や入り口に貼ってあった神学校のポスターにもこの聖句が添えられていたような記憶があります。単純な私は自分の進路を考える際、生まれた時からベビーブーム世代でどこに行っても、何をしても凄まじい倍率の競争社会で生きていかねばならないのであれば、働き手が少ないところにチャレンジしてみてもいいかな?という思いを抱き始めました。そして、高校2年生の秋に初めて三鷹のキャンパスを訪ね、そこで出会った関東の同世代の仲間たちや先輩たちとの触れ合いを通して、本気で神学校を目指す決意を固めたのです。 その出会いから数えればもう30年以上の付き合いとなる仲間の内、私を含めて3人が各地で牧師としての務めを担わせていただいています。いつの間にか青年ではなくなり、いくつかの責任も与えられるようになって、あらためて仲間のありがたさをしみじみ感じています。互いに青春時代にありがちな挫折も経験し、阪神淡路大震災の被災地ボランティア活動では戸惑いや自らのふがいなさに打ちひしがれることもありましたが、福音宣教者として、牧師として世に遣わされることを願って学び続ける仲間たちと、切磋琢磨することができたので、今があると思います。また、現在も、学生時代とは違った課題にそれぞれ向き合いつつ、やっぱり切磋琢磨できていることはありがたいことだと感じています。 主イエスも72人をお遣わしになるとき、1人ではなく2人ずつを組にして派遣されています。証言者はひとりよりも複数と定めた律法(申命記19:15)もありますが、何よりも遣わされる者たちにとっては具体的な相談相手、協力者が共にいるという点は心強かったのでは?と思います。というのも、《行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。》(10:3)とも主が言われているからです。進む先は前途洋々というよりも、苦難、忍耐、練達が求められるようなところと想像できます。 さらに主は《財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。》(10:4-7)と言葉を続けられています。 ほとんど荷物も持たず、先立つものも心もとない状況で、途中で誰にも挨拶をすることなく、目的地では誰かの家に転がり込め、という指示は今風にいうと無茶振りではないかと感じてしまいます。もちろん、主は弟子たちに無茶なことをさせるためにこのようなことを言われているのではありません。 そもそも72人が遣わされた先は、主イエスご自身が行くつもりであった場所とあります。つまり、彼らが遣わされる場所は無作為に選ばれたのではなく、主が福音を伝えるために選ばれた目的地であり、個人的なかかわりを持った人もいたのだろうと考えられます。そして、これは収穫を求めるための派遣。「収穫」は、福音を受け入れる準備ができている大勢の人々を象徴しています。農耕社会において、収穫の時期は非常に重要であり、多くの労働者を必要としました。霊的な意味では、それは人々の心が福音を受け入れる準備ができていることを意味します。収穫は神のものであり、宣教は究極的には神の業であることを示されているのです。だからこそ、先ずは逗留先の拠点定め、平和の挨拶を宣言しなさいと言われているのです。 聖書において、平和は神からの賜物であり、しばしば神の臨在と恵みと結び付けられています(民数記6:24-26)。《この家に平和があるように》(5)という挨拶は、単なる挨拶ではなく、深遠な霊的な祝福なのです。というのも、ここで主は弟子たちを遣わす際に、ご自身の平和を他の人々に広める力を彼らに与えられているからです。この平和は、主イエスが宣教活動を通して宣べ伝えた神の国の到来を予感させるものです。しかし、世は主が近づいて来てくださっているのに、先週の日課にもあったように自分たちの意にそわない場合は拒絶したり、否定します。そして、《狼の群れに小羊を送り込むようなもの》とたとえられるように平和ではない状況が現実としてあるのです。 ここにいる私たちは「主の平和」を知らされる/知ることによって、神を知らない者ではなく、知る者へと変えられたものたちです。神を知らずに生きてきた者が、神と共に生きる者とされるということは、その人の人生に大きな変革をもたらします。《平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる》(6)と主が言われているのは、遣わされた者たちの責任はこの主の平和を差し出すことであり、それが受け入れられることを保証することではないということです。つまり神の召し/呼びかけに人が応えるということは、その人の選択。神とその人の問題であり、救いにおいては常に神に主権があることを強調しているのです。 だからこそ主は《どこかの町に入り、迎え入れられたら、出されるものを食べ、その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ。』と。》(8-11)とも言われるのです。宣教という業は、あくまでもお遣わしになる方の責任においてなされることだからです。 そう、主は、ご自身の名によって遣わされた者たちの平和の挨拶を受け取ることができない人がいたとしても、それは遣わされた弟子たちの責任ではない、とはっきり言われます。それをふまえて《収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい》という御言葉をあらためて聞くと、今、信じる者としてこの御言葉を聞く私たちには新鮮な響きがもたらされるのではないでしょうか? 私たちが宣教する時、神への恐れと信頼をもってあなたは生きているかという問いが同時にあるように思います。派遣されていた弟子たちが主イエスのもとに帰ってくると各々が体験したことを得意げに報告しています。《主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します》(10:17)というように彼らは悪霊祓いのような目立つ出来事を自分たちの成功体験のようにして語るのです。おそらく彼らは遣わされる前よりも自信に満ち、誇らしく感じていたことでしょう。主ご自身も彼らの報告にしっかりと耳を傾けておられます。けれども何となく、モヤモヤが残ります。その原因を考えてみると先週の日課のヤコブとヨハネに通じる弟子たちの勘違い、思い違い、そして主イエスに対する無理解がここにもあるように感じます。彼らのような無理解、勘違いが私たちにもあるのではないでしょうか? 主が弟子たちを遣わされるときにお命じになったことは“何も持たず”、“全面的に神に委ねて旅立ち”、遣わされた場所においては《この家に平和があるように》(10:5)とまず、平和の挨拶をすることでした。それぞれに授けられた権威によって、弟子たちが遣わされた場所で、主イエス/平和の君が共にいてくださる幸いを宣言し、わかちあい、平和の主が拓かれた道に共に従うようにと励まし合うことでした。ここでも、弟子たちの無理解によって、主の真意が今一つ理解できていないのです。 ルカがこの物語を記した理由には、主イエスの十字架と復活、そして、昇天の後、聖霊降臨後に弟子たちが宣教者として世に遣わされ、信じる者たちの群れ(教会)の宣教のことを念頭に置いていたと思います。主イエス・キリストはすべてのものの為に十字架に進み、死んで復活され、再び来るという約束を残して弟子たちに聖霊を送り、ご自身が行くつもりだったあらゆるところで、福音が語られ、わかちあわれることを望まれている。その働きに招かれた者たちは、何よりもまず、心を尽くして、精神を尽くして、神を畏れ、敬いつつ、愛と信頼をもって従うようにという招きだと思います。主は《悪霊があなたたがたに屈服するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい》(10:20)と言われます。 望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを私たち一同に満たし、聖霊の力によって、私たちを望みに溢れさせてくださるように。 (岡田) 《 来週の礼拝 》                               #7月13日 午前10時30分 聖霊降臨後第5主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「私の隣人とは 」*奏  楽:井上志乃さん*聖書朗読:小川敦子さん*礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:申命記 30:9-14(旧329), コロサイ 1:1-14(新368),ルカ 10:25-37 (新126)*…