8月31日「今日の礼拝堂」
聖霊降臨後第12主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:神様。わたしたちは、ただあなたの恵みによってのみ、救われます。思い上がりを捨てて、あなたへの畏れと感謝を胸に、互いに助け合って歩むことができますように。 救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第12主日 説教 「報いを望まずとも」 箴言25:6-7a ヘブライ13:1-8,15-16 ルカ14:1,7-14 主イエスがここで教えようとされているのは、地位や承認を求める文化的規範への挑戦です。民衆と同じ地平に立ち、主が伝えようとされていることは、常に「あなたの救い」のための説教です。この視点から、今日の物語を聞くとすれば、ここで語られていることはどういうことでしょうか?それは、神の御前においては、何人も自分をランク付けしてはいけないと言うことです。婚宴は神の国の譬えです。招かれた客の中で、自分がどのあたりの地位にあるだろうとか、あの人より自分は上か下か?など比較することや良い席であるとか、悪い席であるとか選り好みやランク付けをしてはいけない、と主は言われるのです。なぜなら、上のほうに座れる人間などいないからです。 そもそも私たちは、救われるに足る者ではありません。天の祝宴に招かれるに足る者ではありません。にもかかわらず、こうして主の御許に招かれています。神の宴席に招かれているのですから、末席で充分なのです。想像してみてください、おずおずと末席に座っている自分を。そして、「さあもっと真ん中に来なさい」と語りかけられたとしたら、どのように応えることができるでしょうか?おそらく多くの人は「そんな資格はとても自分にはありません」と応じるのではないでしょうか?しかし、あなたに語りかける声は続けて言います。「あなたに資格があるから言っているのではない。わたしはあなたにわたしの命を与えた。それほどにあなたは大事な賓客なのだ。あなたはそれを受け入れた。だから悪びれることなく、真ん中に来なさい。もっと晴れがましいところに来なさい」と。そうです。私たちは、主イエスご自身の招きによってこの礼拝に、恵みの祝宴に導かれているのです。 後半のたとえ話も興味深いものです。主がここで「貧しい人」「足の不自由な人」「体の不自由な人」「目の見えない人」と列挙されている人たちは、当時はおよそ宴会などという晴れがましい社交の場には、まず、縁がない人たちです。というのも彼らはその日、その日を生き抜くだけで精一杯。日ごとの糧を得るために、道ばたに座って憐みを乞う者もいました。「その人たちを招いてもお返しができない」という、理由で、あなたの宴会に招待しなさいと、主は言われます。現実にはとてもあり得ないことです。 主イエスは「宴会の教え」の体裁を取りながら、救いへの招きがどんなものかを説いておられるのです。そしてその内容は主イエスが実際にガリラヤの町々、村々で実践されていたこと。信仰とは「恵みを無償で頂くこと」、つまりタダです。タダより怖いものはないと言いますが、厳密にいえば主は一つだけ見返りを求められます。それは「信じて受けよ」という見返りです。 タダだから/無償だから頂いても頂かなくてもいいのだ、と人は思うかもしれません。実際に、多くの人たちがそう考え、そう振舞っています。しかしこの恵み/救いには高価な代償が必要でした。それは主イエス・キリストのいのち。主は、私のため/私たちのために十字架にその身を委ねられます。私たちはこれに対して何のお返しもできません。何の償いもできません。私たちにできることは、お返しができないことをよくよくわかりながらも、何の見返りも求められない、主イエスによる救いへの招待を、ただ受けること。信じて受け、感謝して受け、その宴席に連なることです。そう、「お返しができない者だからこそ、招かれている」とは、私たちのことなのです。(岡田) 《 来週の礼拝 》 #9月7日 午前10時30分 聖霊降臨後第13主日 礼拝 *司 式:岡田 薫牧師*説 教:岡田 薫牧師「よりどころ 」*奏 楽:若井裕子さん*聖書朗読:小笠原里子さん *礼拝当番:秋田直枝さん*聖 書:申命記 30:15-20 (旧329), フィレモン 1:1-21 (新399),ルカ 14:25-33 (新137) * 讃 美 歌:175番、328番、増補版 38番
