August 2025

8月31日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第12主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:神様。わたしたちは、ただあなたの恵みによってのみ、救われます。思い上がりを捨てて、あなたへの畏れと感謝を胸に、互いに助け合って歩むことができますように。  救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第12主日 説教   「報いを望まずとも」                 箴言25:6-7a ヘブライ13:1-8,15-16 ルカ14:1,7-14 主イエスがここで教えようとされているのは、地位や承認を求める文化的規範への挑戦です。民衆と同じ地平に立ち、主が伝えようとされていることは、常に「あなたの救い」のための説教です。この視点から、今日の物語を聞くとすれば、ここで語られていることはどういうことでしょうか?それは、神の御前においては、何人も自分をランク付けしてはいけないと言うことです。婚宴は神の国の譬えです。招かれた客の中で、自分がどのあたりの地位にあるだろうとか、あの人より自分は上か下か?など比較することや良い席であるとか、悪い席であるとか選り好みやランク付けをしてはいけない、と主は言われるのです。なぜなら、上のほうに座れる人間などいないからです。 そもそも私たちは、救われるに足る者ではありません。天の祝宴に招かれるに足る者ではありません。にもかかわらず、こうして主の御許に招かれています。神の宴席に招かれているのですから、末席で充分なのです。想像してみてください、おずおずと末席に座っている自分を。そして、「さあもっと真ん中に来なさい」と語りかけられたとしたら、どのように応えることができるでしょうか?おそらく多くの人は「そんな資格はとても自分にはありません」と応じるのではないでしょうか?しかし、あなたに語りかける声は続けて言います。「あなたに資格があるから言っているのではない。わたしはあなたにわたしの命を与えた。それほどにあなたは大事な賓客なのだ。あなたはそれを受け入れた。だから悪びれることなく、真ん中に来なさい。もっと晴れがましいところに来なさい」と。そうです。私たちは、主イエスご自身の招きによってこの礼拝に、恵みの祝宴に導かれているのです。 後半のたとえ話も興味深いものです。主がここで「貧しい人」「足の不自由な人」「体の不自由な人」「目の見えない人」と列挙されている人たちは、当時はおよそ宴会などという晴れがましい社交の場には、まず、縁がない人たちです。というのも彼らはその日、その日を生き抜くだけで精一杯。日ごとの糧を得るために、道ばたに座って憐みを乞う者もいました。「その人たちを招いてもお返しができない」という、理由で、あなたの宴会に招待しなさいと、主は言われます。現実にはとてもあり得ないことです。 主イエスは「宴会の教え」の体裁を取りながら、救いへの招きがどんなものかを説いておられるのです。そしてその内容は主イエスが実際にガリラヤの町々、村々で実践されていたこと。信仰とは「恵みを無償で頂くこと」、つまりタダです。タダより怖いものはないと言いますが、厳密にいえば主は一つだけ見返りを求められます。それは「信じて受けよ」という見返りです。 タダだから/無償だから頂いても頂かなくてもいいのだ、と人は思うかもしれません。実際に、多くの人たちがそう考え、そう振舞っています。しかしこの恵み/救いには高価な代償が必要でした。それは主イエス・キリストのいのち。主は、私のため/私たちのために十字架にその身を委ねられます。私たちはこれに対して何のお返しもできません。何の償いもできません。私たちにできることは、お返しができないことをよくよくわかりながらも、何の見返りも求められない、主イエスによる救いへの招待を、ただ受けること。信じて受け、感謝して受け、その宴席に連なることです。そう、「お返しができない者だからこそ、招かれている」とは、私たちのことなのです。(岡田)  《 来週の礼拝 》                               #9月7日 午前10時30分 聖霊降臨後第13主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「よりどころ 」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:小笠原里子さん *礼拝当番:秋田直枝さん*聖  書:申命記 30:15-20 (旧329), フィレモン 1:1-21 (新399),ルカ 14:25-33 (新137) * 讃 美 歌:175番、328番、増補版 38番  

8月24日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第11主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:神様。御子は、病める者をご覧になり、憐れみ、癒されました。今、御前に集う私たちを、福音によって励まし、助け、導き、主と隣人に仕える者としてください。  救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第11主日 説教(教区講壇交換 河田礼生牧師(恵み野教会・函館教会))     「善い言葉が働く日」                 イザヤ書58:9b-14、ヘブライ人への手紙12:18-29、ルカによる福音書13:10-17 わたしたちが教会に集まる理由は様々です。しかし、誰もがみ言葉を聞くために集まっているのではないでしょうか。それが主の教える安息日です。 イエス様はある安息日に会堂で教えられていました。これはつまり礼拝です。わたしたちのように、イエス様も安息日には会堂で礼拝を守られていたのです。それゆえに、この時もイエス様が共にいてくださっているといえます。さて、会堂には病に苦しむ女性が来ていました。そこでイエス様は「婦人よ、病気は治った」と言葉をかけ、癒されます。会堂に集まっていた群衆はこの出来事に「自分も治してもらえる」「自分を悩みから解放してくれる」と、希望を見出したことでしょう。この癒しは私たちにも希望となります。 しかし、その教会の会堂長はイエス様のみ業を見て、「安息日に治してもらってはいけない」と群衆たちに言うのです。彼は教会の秩序を守るために、そう言う必要がありました。モーセの十戒に定められた安息日は当時の教会において、重んじられなければならない戒めだったのです。なぜなら、律法を遵守する事で、人々は神様の民であり続ける事できたからです。出エジプト記の31章には「だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。」「必ず死刑に処せられる」と安息日を破った場合の罰則も規定されています。それゆえに、会堂長は安息日を守るように伝えたのです。イエス様のみ業に腹を立てたのは、自らの会堂で安息日が破られたゆえに、神様の民から外されてしまう恐怖があったからです。会堂長はこの会堂を守りたいという責任感と親切心から語りかけたのです。 しかし、彼は本当に良いものを理解していませんでした。それは安息日が、仕事をしてはいけないという以上に、神様の祝福を受けることを求められている日であることです。忙しかったり、煩わしさの中で祝福を受けることがおろそかになってしまうから休むのです。 私は神学生のときにこの恵みを実感する経験をしました。神学生になると、日曜日には教会で実習を行うようになり、休む暇がなくなってしまいます。すると不思議なことに、教会でみ言葉を語っているのに、むしろみ言葉からはどんどん遠のいているように感じたのです。そこで私はみ言葉を受けることを求めるようになり、実習後に母教会の夕礼拝に向かうようになりました。実習で忙しくなるほど、休んで神様の祝福を受ける安息が必要だとこの身に実感したのです。 神様は確かに七日目に休まれたけれども、それだけでなくその日を祝福する働きをされました。むしろ安息日にこそ、神様の祝福は働いています。それはイエス様の語るみ言葉であり、「婦人よ、病気は治った」という祝福の言葉です。 教会にくると、奉仕やお仕事でますます疲れたり、煩わしさを感じることもあるかもしれません。忙しくて1日働かずにいる事は難しい事でしょう。しかし、礼拝の時間だけは是非、他の煩わしさから離れて、神様のみ言葉から祝福を受け取って過ごしましょう。その時、私たちは神様の喜びへと迎えられます。安息日にイエス様によって癒された女性も、イエス様のみ言葉を受けることで、神様を賛美する喜びへと招き入れられました。 あなたは今日ここで、み言葉による心と体の癒しを受けました。イエス様の祝福、良き言葉があなたに働き、あなたを解き放ちました。共に神様をほめたたえましょう。アーメン。         《 来週の礼拝 》                               #8月31日 午前10時30分 聖霊降臨後第12主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「報いを望まずとも 」*奏  楽:滝田裕美子さん*聖書朗読:清水美年子さん                                                                               *聖  書:箴言 25:6-7a (旧1024), ヘブライ 12:18-29 (新418),ルカ 14:1,7-14 (新136) * 讃 美 歌:213番、293番、讃美歌21…

8月17日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第10主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 永遠の裁き主である神様。あなたは正義を愛し、抑圧を憎まれます。あなたは真理を熱く願い、それを伝えるために私たちを召し出されます。あなたの僕や預言者たちに倣い、私たちの信仰の先駆者であり完成者であるイエス・キリストを見上げつつ、この世の争いと欲の犠牲者たちの側に立つ勇気をお与えください。 救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第10主日 説教 エレミヤ23:23-29 ヘブライ11:29-12:2 ルカ12:49-56 「時を見分ける」 8月1日の夜、「デマと差別が蔓延(まんえん)する社会を許しません」と訴える街頭アピールが東京・新宿駅前で行われました。スピーチのために登壇した方の中に、髙井ゆと里(たかいゆとり)さんという方がおられます。彼女はここでのスピーチを依頼されてから、どのような発言をしようかと悩まれた結果、研究者であり、アクティビストでありクリスチャンである自分ができることは「祈ること」と言われて、短いスピーチの後で信仰を持たない方への配慮のことばを語られたのち、少しの間、私と祈りの時間を共にして欲しいと聴衆に呼びかけられてから、祈りを捧げられました。この祈りを聞いた時、私は今日の福音の日課を思い出しました。 《わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。》(12:49-51)。ここで言われている分裂とは、主従関係の崩壊や誰もが自分勝手に振舞っても良いということではありません。もしも、力ある人が弱い立場の人に「文句を言わずに、言うとおりにしておけばよい」と命令したとします。何も知らない人が、この二人の関係をみれば争いも無く平和に見えます。けれども、いつも命令ばかりされている人の心の中には、屈辱や命令をする人に対する憎悪、悪意があるかもしれません。もし、そうであればこれは真の平和ではなく、見せ掛けの平和。いびつな関係です。 《父は子と、子は父と。母は娘と、娘は母と。しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して別れる》(12:53)とは、それぞれが家族という一つの枠にあっても、個別の自由な存在であることを示しています。天地創造のはじめに、極めて良いと神が満足されていた頃の世界の姿は、一つ一つのものがその固有の命の輝きをもち、互いにその命を尊ぶことができていました。ところが、人は神のようになりたいという誘惑に負け、罪を犯したときからその関係を破たんさせてしまいます。 この壊れてしまった関係を修復するために、主イエスはこの世に降られたのです。十字架という苦しみを神自らが担うために。これは、私たちに対する神の愛そのものです。私たちは、この神の愛の業を知ることによって、“神と私”という関係に招かれていることを知ることが出来ます。そして、この天地を貫く縦のラインがはっきりと構築されることによって、地平における“あなたとわたし”という関係を祝福の内に築くことが出来るのです。 主イエス・キリストはご自分の十字架での死をはっきりと悟り、それについて語られながら、一歩、また一歩と歩みを進めつつ、聞く耳を持つ者たちに、神がこうまでして私たちに悟らせたいこと、それに耳を傾けるように促されているのです。つまり、主は神が求めておられる真の平和とは、単に揉め事や争いが無い状態ではなく、一人ひとりが自由であり、他の誰からも抑圧されること無く、神との正しい関係を生きている世界。そして互いの違いを認めつつ、共に生きる/生かされる世界なのだと。 (岡田)                   《 来週の礼拝 》                               #8月24日 午前10時30分 聖霊降臨後第11主日 礼拝 *司  式:河田礼生牧師*説  教:河田礼生牧師「善い言葉が働く日 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:小川敦子さん *礼拝当番:楢戸恵子さん*聖  書:イザヤ 58:9b-14 (旧1157), ヘブライ 12:18-29 (新418),ルカ 13:10-17 (新134) * 讃 美 歌:149番、324番、讃美歌21 561番

8月10日「今日の礼拝堂」

平和の主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 全能の神様。真理と平和への思いはすべてあなたから与えられます。すべてのあなたの子どもたちの心に平和を愛する心を燃やし、あなたの知恵で諸国の指導者を導き、御国が平和のうちに前進し、全地があなたの愛を知る知識で満たされるようにしてください。あんたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○平和の主日 礼拝 説教                   ミカ4:1-5 エフェソ2:13-18 ヨハネ15:9-12          「主が示される道」 先日、帯広の聖書に親しむ会の後、帯広メノナイト教会で行われた平和集会に参加してきました。お話しくださった月下美紀さんは、鹿追在住のアーティストで84歳になられる方。おひげの似合うチャーミングなおじいさんという印象ですが、その経歴は4歳の時に広島で被爆、大人になられてからは大企業で海外支店を任されるような立場になられたのに、会社を辞めて放浪の旅にでたり、無人島で全財産を失ったりと波乱万丈な生き方をされてきた方でした。この4月にも脳梗塞を患われたとのことですが、右半身の感覚は麻痺していても筆を握り、動かすことは出来るので我流の墨アート作品作りをどんどん進めて、この夏の個展だけでなく来年の個展の予定も組んでおられるとのことでした。 ワークショップでは墨を筆や指、歯ブラシを使って紙に落とし、「遊び」という漢字を繰り返し書かれていくうちに、周囲で見ている私たち自身もなんだかウキウキししてくる感覚を味わいました。「争わない、自由なアートをやる。」とおっしゃる月下さんの芯には、被爆など様々な体験をする中で、自分が心地よく生きる知恵をアートにしたということがあるようです。あいさつ文にも「人はそれぞれ考えや感覚が違うので、押しつけたり、批判したり、争ったりしようとは思っていません」とありました。時間と空間を共にする者同士が自由にのびのびと遊び心を感じることができた数時間でした。そして、まじめに平和を語り合うことが「平和集会」と思い込んでいた私自身の思い込みを見事に打ち砕かれ、論じるだけでなく、実践することの尊さと必要を教えられたように感じています。 今日、私たちが聞いた福音は《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい。》(15:12)という主イエス・キリストの言葉です。また、日課の続きには《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。》(15:16)と主による選びが先んじていたことが弟子たちに宣言されています。すべてに先んじて、主イエスご自身が弟子たちを知り尽くし、ご自分の愛すべき者たちとして選び取ってくださっていたのです。 今、私たちが生かされている社会、社会というと大きすぎれば、自分が生かされている半径5メートルぐらいを想像してみましょう。その空間は果たして平和と言えるでしょうか?そうであるならば、大いに喜び祝いましょう。もし、そうでないのであれば、少しでも平和に近づくために自分にできることは何か?と考えてみましょう。そして、平和を実現するために出来そうなことから始めてみませんか?それぞれに与えられている賜物も違いますし、力も、経済力もないかもしれません。でも、ぶどうの枝葉が根に、幹に流れるいのちの水を得ることによって、枝を伸ばし、葉を茂らせ、豊かな実りをもたらす様に、私たちは主イエスにつながることによって、真の愛を知り、真の命に生きる者とされています。主イエスが出会う人、ひとり一人と共におられたように私たちも共に生きる者として、相手の存在を認め、尊び、仕え合うことができますように。そして、キリストの愛が、平和が、赦しが、私たちの心の隅々にまで、行き渡り、それぞれの生かされている場において平和を実現する者であることができますように。 (岡田)           《 来週の礼拝 》                               #8月17日 午前10時30分 聖霊降臨後第10主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「時を見分ける 」*奏  楽:井上志乃さん*聖書朗読:小笠原里子さん *礼拝当番:清水美年子さん*聖  書:エレミヤ 23:23-29 (旧1221), ヘブライ 11:29-12:2 (新416),ルカ 12:49-56 (新133) * 讃 美 歌:168番、299番、讃美歌21 561番

8月3日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第8主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 慈しみ深い神様。あなたは私たちの命の源、道しるべ、そして目標です。愛すべきものを愛し、あなたに逆らうものを拒み、あなたの目に貴いものを大切にすることを教えてください。  救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第8主日 説教              コヘレト1:2,12-14,2:18-23コロサイ3:1-11 ルカ12:13-21        「すべては神の御手のうち」 ことわざに「命あっての物種」という言葉があります。まさにたとえ話の金持ちは、あれこれと思いめぐらせているものの、自分のいのちが瀬戸際にあることを知りません。神によって彼のいのちが取り上げられれば、多くの財産は別の人へと相続されるに過ぎず、この人自身は思い描いたような享楽を味わうことなく死ぬだけです。なんというむなしさ!今日の第一の日課であるコヘレトの言葉にある通りです。 どんなに地上での富を積み、豊かになったとしてもいのちがなければ無意味です。この物語は、貪欲によって視野が狭くなってしまっている人々に、大切なことを思い出すよう促す物語です。つまりいのちの源である神との関係をあなたは見失っていませんか?あなたは神ではなく見当違いな方向を見ていませんか?と問いかけ、神ならざるものへと心奪われてしまっている人を神へと引き戻す物語なのです。 主イエスは“自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者”のたとえとして、この愚かな金持ちの話をされました。恵みに浴していてもその価値を知らず、満足することも無く、今ある恵みに気づかない愚かさ。主は、このたとえ話を聞く者たちが本当に豊かなものとは何か?に気づき、それを求めるようにと願っておられるのです。 いのちも持ち物も、たどってゆくと全て与えられたもの…どれ一つとして同じものは無く、神の愛によって生み出されていったものです。主は貪りではなく、“すべてのものを万物の創造主である神に帰すことによって、自由を得ることができる”、ということを教えてくださるのです。そう、すべては神の御手からいただくもの。私たちが意識している/していないにかかわらず、祝福や恵みは常に注がれています。神の前に豊かな者とは、その源である神との交わりにあることを知らされている者たちのことを指すのです。 私たちが生きる/生かされている現実社会は世界中に満ちる暴力や搾取、様々な不均衡等に満ちています。ほとんどの根底には、今日の物語であぶり出されてきた貪欲あるいは貪り(むさぼり)によって、私たちの視野が狭められ、神から神ならぬものへと心奪われている結果のように思います。《どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい》(12:15)との御言葉が迫ってくるようです。 主イエス・キリストは貪欲にまみれて、自らのために地上に富を求めるのではなく、神を畏れ、愛し、信頼し、御心に適う生き方を求め、天に宝を蓄えるようにと勧められています。この言葉は、キリスト者がどこに軸足を置き、与えられたいのちを生きるのかということを問われる者だと思います。神の国に関する主イエスの教えに触れた私たちは、御心に適う歩みを進めていくことができるように、先立つお方の導きを祈り求めて参りましょう。(岡田)         《 来週の礼拝 》                               #8月10日 午前10時30分 平和の主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「主が示される道 」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん                                                                               *聖  書:ミカ 4:1-5 (旧1452), エフェソ 2:13-18 (新354),ヨハネ 15:9-12 (新198) * 讃 美 歌:439番、470番、讃美歌21 561番