September 2025

9月28日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第16主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:神様。あなたは正しく、憐みに富んでおられます。みことばを聴き、みこころを尋ね求める私たちにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第16主日 説教                    アモス6:1,4-7 テモテ一6:6-19 ルカ16:19-3 「 憐れみ 」 今日の物語は、金持ちとラザロという人物が登場する物語です。「ラザロ」という名前はヘブライ語のエレアザルに由来し、「神は助けてくださった」という意味です。たとえ話の中で名前のついた人物が用いられるのは、珍しくこの物語に特有のものです。おそらくこれは、より深い個人的なつながりを示唆し、物語の現実性を強調しているのです。つまりラザロは、このたとえ話を聞いている人達の周囲にいる疎外され、困窮している人々を象徴しているのです。 聖書の時代、皮膚病は儀式上の不浄や共同体生活からの排除につながることが多くありました。また、その腫れ物を犬がなめている姿は、彼の貧困と社会から疎外されている様を一層鮮明にしています。卑しく汚れていると考えられていた犬たちが、金持ちよりもラザロに対して多くの気遣いを示している様を、神学的に見るとルカによる福音書全体に見られる逆転のテーマ、つまり最後の者が最初になり、最初の者が最後になる(ルカ13:30)ということを強調し、神が思いがけない手段を使って慰めを与える方法について私たちに考えるよう促します。 場面が死後の世界へと変わると、金持ちとラザロの位置が逆転します。死んでしまった金持ちが目を上げると、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれたラザロが目に入ります。炎の中でもだえ苦しんでいる金持ちは、とにかく僅かな水でも得たいと願い、アブラハムに向ってラザロを自分のもとへと遣わしてくれるようにと頼みます。しかし、答えは厳しいものでした。なぜ物語の金持ちは、ここまでアブラハムから拒絶されたのでしょうか。問題は、彼がお金持ちだったから、という理由ではありません。生前、彼の家の門前には、できものだらけの貧しいラザロが横たわっていました。死後の世界でのやり取りを見ると、金持ちはラザロという人がどのような人物で、彼が助けを必要としていることを知っていました。しかし、犬ですらもラザロに関心を示しているにも関らず、金持ちは生きている時にはラザロには目もくれず、助けることも声をかけることもせず無視していたのです。そして浪費については自分の差配で何とでもなる、自分のしたいようにすることに対してなんの躊躇もありませんでした。 もしこの金持ちが自分に富を与えてくださったのが神であるということに少しでも思いが向いていたならば、恵みに対する感謝の思いがわずかでもあったならば、自分が手にしていた多くの富を誰かとわかちあうことができたかもしれません。しかし、彼は自分のために備えることはしても、神への感謝や隣人に対する憐れみを持つことがなかったので、ラザロのこともほったらかしでした。 主イエスはこの話を聞く者たちが、神の言葉に真剣に耳を傾け聞いているだろうか?と問われているのです。このように問われて、当時の人々も私たちも恐れおののきつつ、うなだれるしかないかもしれません。しかし、だからこそ、主イエスはこの世に降られて来たのです。私たち人間が決して越えることができない深い淵を越えて、神の愛の懐へと私たちを救い出してくださるために。神は主イエス・キリストを通して私たちに赦しと慰めと愛を示してくださいました。罪赦された罪人として、キリストに愛された者として生きる/生かされる喜びを私たちは知らされています。この大いなる恵みを自分のもとで停滞させていてはいけません。神の業は人を頼みとして広がりを持ちます。誰かを通して私に伝えられたこの喜ばしい福音を、私たちはこの世に対して、喜んで差し出し、伝え、共に喜ぶ者として生きるようにと押し出されていくのです。(岡田)  《 来週の礼拝 》                               #10月5日 午前10時30分 聖霊降臨後第17主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「信じて委ねる 」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん  *礼拝当番:秋田直枝さん*聖  書:ハバクク 1:1-4,2:1-4 (旧1464), テモテ手紙二 1:1-14 (新391),ルカ 17:5-10 (新142) * 讃 美 歌:365番、410番、増補版 16ー1番      

9月21日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第15主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」  私たちの間におられる神様。私たちは互いに愛し合うように、御名のもとに集います。悪の道から遠ざけ、私たちの思いをあなたの知恵に向け、御子の輝く恵に心を向けることができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。    ♪ アーメン 《 来週の礼拝 》                               #9月28日 午前10時30分 聖霊降臨後第16主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「憐れみ 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:楢戸恵子さん *礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:アモス 6:1,4-7 (旧1436), テモテ手紙一 6:6-19 (新389),ルカ 16:19-31 (新141) * 讃 美 歌:166番、460番、増補版 38番 

9月14日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第14日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:慈しみと憐れみに溢れる神様、あなたは迷う者を連れ戻してくださいます。あなたに背くすべてを退け、命をはぐくむすべてに従うことができるように、あなたの民を愛のうちに守ってください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第14主日 説教                    出エジプト32:7-14 テモテ一1:12-17 ルカ15:1-10   「 大きな喜び 」 主イエスがこれらのたとえ話を語られた背景には、ファリサイ派や律法学者たちからあがっていた批判の声がありました。彼らは徴税人や罪人たちが主イエスの話を聞こうと集まって来るのを見ると“あのような罪深い者たちと関わりを持つなんて・・・”と主が彼らを受け入れ、食事を共にされることを非難していました。彼らは不道徳な人々だけでなく、不正直な行為を含むことになる職業や、定まった儀礼を守ることの出来ない生活をしている人、異邦人と関わりを持つ生活をしている人々を“罪人”と見なしていました。遊牧の民である羊飼いたちも「地の民」と呼ばれ、ファリサイ派の人々は関わりを避けていました。しかし主イエスは、誰とでも食卓を囲み、共に食事を楽しみ、語らい、恵みをわかちあわれます。人と人との間にある隔ての壁を取り払い自由自在に振舞われるのです。 主がたとえを用いて語られているのは、単に宗教エリートたちの考え方を否定するのではなく、無意識のうちに彼らが陥っている罠から救い出すためのように感じます。やりとりの重要なポイントは、救いがどこから来るのか、誰が救いの主導権を持っているのかという点です。 ファリサイ派や律法学者たちは、律法を守り、忠実に従うことによって救われる、という考え方を尊重していました。しかしこれは、自らの業(わざ)によって神に近づける、あるいは救いに到達できると思い込んでしまう危険性があります。時折、神に従っているようであっても愛を忘れてしまっているような彼らの言動が見られますが、そのような時、人は神の深い憐れみや愛の世界から自分たちの思い描く別の道、罪の道に彷徨いだしている状態だと言えるでしょう。 たとえに出てくる群れから見失われてしまった一匹の羊、見失われてしまった1枚のドラクメ銀貨は、《悔い改める一人の罪人》を指しています。この悔い改める一人の罪人とは誰のことでしょうか。それは、主が食卓に招かれた一人ひとりであり、ファリサイ派や律法学者たちでもあり、この物語を福音として聞こうとしている私たち一人一人のことです。主はご自分の話を聞きながら「自分は大丈夫」、そう思い込んでいるような人々に対して、あなた自身が見失われていたにもかかわらず見いだされた存在なのだ、ということを教えられるのです。そして、たとえ私たちが神から遠く離れてしまっていることに気づかなくても、失われていることに気づいていなくても、神は物語に登場する羊飼いや女性のように、決して諦めず、失われたものを見いだそうと真剣に私たちに向き合ってくださるお方なのだ、と力強く語られるのです。そして、見つけ出したときには天には大きな喜びがあるのだと。 《人の子は、失われたものを捜して救うために来た》(ルカ19:10)とあるように、私たちは“主が私たちを/私を見いだすために来てくださった”ということをあらためて知る必要があります。そして、主の愛の眼差しの中で今生かされている喜びを共に祝うようにと招かれていることにも。そのために御子主イエスは世に下り、その命を十字架に渡すことによって私たちに対する愛を顕(あきら)かに示してくださいました。 私たちはこのみ子を通して与えられた赦し、救い、永遠のいのちへの約束に気づかされたからこそ、教会に連なり礼拝へと導かれています。神を知る恵み、神に知られている恵み。私という一人の罪人が神へと立ち返ることが出来たことを神は喜んでくださっています。その喜びを私たちも共に喜ぶ者でありましょう。(岡田)            《 来週の礼拝 》                               #9月21日 午前10時30分 聖霊降臨後第15主日 礼拝 *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「それは正しいか 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:楢戸恵子さん *礼拝当番:青木比呂子さん*聖  書:アモス 8:4-7 (旧1439), テモテ手紙一 2:1-7 (新385),ルカ 16:1-13 (新140) * 讃 美 歌:170番、401番、増補版 38番

9月7日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第13主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:主なる神様。私たちが行うすべてを助け導いてください。私たちの業がすべて、あなたのうちに始まり、続けられ、終えることができ、そのすべてにおいて聖なる御名をあがめ、永遠の命に至ることができるようにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第13主日 説教   「よりどころ」                 申命記30:15-20 フィレモン1:1-21 ルカ14:25-33 主イエスは再びエルサレムへ向けて歩き出されました。その後には多くの群衆たちがついてきています。しかし、ここにいる誰一人として、主イエスが見つめているその先に十字架の苦難がある事に気づいていません。それは弟子たちも同様です。主は振り返り《もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない》(14:26)と言われました。 もちろん主は “あなたの父と母を敬え”という十戒の教えや“互いに愛し合いなさい”という教えを無効化されようとしているのではありません。聖書の物語の中にも、親子間や夫婦間の間で、愛しすぎたことによって起こるさまざまな事件が繰り返し登場します。その中でも、イサクと妻リベカと二人の息子たち(エサウとヤコブ)の物語は、今日の福音を読み解く鍵として一つのヒントを与えてくれるのではないかと思います。 イサクは父アブラハムから受け継いだ祝福を次の世代へとつなぐために、自分のお気に入りだった長男のエサウを呼んで祝福を与えようと考えていました。しかし、妻のリベカは弟のヤコブの方をより多く愛していましたから、エサウではなくヤコブに祝福が与えられるように、一計を案じます。それによって、ヤコブは首尾よく父イサクから祝福を受けるのですが、それによって兄エサウから命を狙われることになります。この物語に現れているのは、父と母がそれぞれ長男と次男を偏愛し、自分たちの偏った愛情を成就させるために駆け引きを行い、それに加担した兄弟も含めて、一つの家族が結局バラバラになってしまったという事例です。このように、私たちは家族や親しい間柄の中で、偏愛することや行き過ぎた情をかけるが故に、お互いの関係の中に破たんをもたらすことがあるのです。 今、エルサレムをめざし、そこで十字架という重荷を担う決意をされている主イエスは、ご自身の決意こそが人々に救いをもたらすものであることを知っておられます。だからこそ、集まってくる弟子志願者たちに単なる「愛着」や「追従」で従ってくるのではなく、ご自身と同じような覚悟を持つことを求められておられるのです。その覚悟とは、どのようなことがあっても父なる神のみ心に忠実に従う、という決意です。 この《従う》ということが、どのようなことであるか?をしっかりと考えることを促すために主は《自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない》という厳しい言葉を投げかけておられるのです。この言葉は、私たちに重く響くことでしょう。みことばに耳を傾け、その呼びかけに応え、自分の十字架を背負って主に従っているつもりでも、本当のところで、その判断が出来るのは私たちではないからです。また、私たちが確証を求めて努力しても、それは救いの条件にはなりません。私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架での贖いの死、そして復活以外にはありません。 つまり主は“私/私たちには自分を裁くいかなる権利も与えられておらず”、“自主性と自由をもつ存在ではあっても、私/私たちは神からいただいた命を生かされている者である”ということを忘れるな、と諭されているのです。それと同時に家族や親しい者たちに対する言葉も、私たちが持っている情や愛の限界を指摘し、執着するのではなく、お互いを超えた存在/神を通して結び合う関係があることを教えてくださっています。(岡田)              《 来週の礼拝 》                               #9月14日 午前10時30分 聖霊降臨後第14主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「大きな喜び 」*奏  楽:井上志乃さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん *礼拝当番:小川敦子さん*聖  書:出エジプト 32:7-14 (旧147), テモテ手紙一 1:12-17 (新384),ルカ 15:1-10 (新138) * 讃 美 歌:151番、371番、増補版…