9月7日「今日の礼拝堂」
聖霊降臨後第13主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:主なる神様。私たちが行うすべてを助け導いてください。私たちの業がすべて、あなたのうちに始まり、続けられ、終えることができ、そのすべてにおいて聖なる御名をあがめ、永遠の命に至ることができるようにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第13主日 説教 「よりどころ」 申命記30:15-20 フィレモン1:1-21 ルカ14:25-33 主イエスは再びエルサレムへ向けて歩き出されました。その後には多くの群衆たちがついてきています。しかし、ここにいる誰一人として、主イエスが見つめているその先に十字架の苦難がある事に気づいていません。それは弟子たちも同様です。主は振り返り《もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない》(14:26)と言われました。 もちろん主は “あなたの父と母を敬え”という十戒の教えや“互いに愛し合いなさい”という教えを無効化されようとしているのではありません。聖書の物語の中にも、親子間や夫婦間の間で、愛しすぎたことによって起こるさまざまな事件が繰り返し登場します。その中でも、イサクと妻リベカと二人の息子たち(エサウとヤコブ)の物語は、今日の福音を読み解く鍵として一つのヒントを与えてくれるのではないかと思います。 イサクは父アブラハムから受け継いだ祝福を次の世代へとつなぐために、自分のお気に入りだった長男のエサウを呼んで祝福を与えようと考えていました。しかし、妻のリベカは弟のヤコブの方をより多く愛していましたから、エサウではなくヤコブに祝福が与えられるように、一計を案じます。それによって、ヤコブは首尾よく父イサクから祝福を受けるのですが、それによって兄エサウから命を狙われることになります。この物語に現れているのは、父と母がそれぞれ長男と次男を偏愛し、自分たちの偏った愛情を成就させるために駆け引きを行い、それに加担した兄弟も含めて、一つの家族が結局バラバラになってしまったという事例です。このように、私たちは家族や親しい間柄の中で、偏愛することや行き過ぎた情をかけるが故に、お互いの関係の中に破たんをもたらすことがあるのです。 今、エルサレムをめざし、そこで十字架という重荷を担う決意をされている主イエスは、ご自身の決意こそが人々に救いをもたらすものであることを知っておられます。だからこそ、集まってくる弟子志願者たちに単なる「愛着」や「追従」で従ってくるのではなく、ご自身と同じような覚悟を持つことを求められておられるのです。その覚悟とは、どのようなことがあっても父なる神のみ心に忠実に従う、という決意です。 この《従う》ということが、どのようなことであるか?をしっかりと考えることを促すために主は《自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない》という厳しい言葉を投げかけておられるのです。この言葉は、私たちに重く響くことでしょう。みことばに耳を傾け、その呼びかけに応え、自分の十字架を背負って主に従っているつもりでも、本当のところで、その判断が出来るのは私たちではないからです。また、私たちが確証を求めて努力しても、それは救いの条件にはなりません。私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架での贖いの死、そして復活以外にはありません。 つまり主は“私/私たちには自分を裁くいかなる権利も与えられておらず”、“自主性と自由をもつ存在ではあっても、私/私たちは神からいただいた命を生かされている者である”ということを忘れるな、と諭されているのです。それと同時に家族や親しい者たちに対する言葉も、私たちが持っている情や愛の限界を指摘し、執着するのではなく、お互いを超えた存在/神を通して結び合う関係があることを教えてくださっています。(岡田) 《 来週の礼拝 》 #9月14日 午前10時30分 聖霊降臨後第14主日 礼拝 *司 式:岡田 薫牧師*説 教:岡田 薫牧師「大きな喜び 」*奏 楽:井上志乃さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん *礼拝当番:小川敦子さん*聖 書:出エジプト 32:7-14 (旧147), テモテ手紙一 1:12-17 (新384),ルカ 15:1-10 (新138) * 讃 美 歌:151番、371番、増補版…
