October 2025

10月12日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第18日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:全能の神様、あなたが創られたものは、憐れみによって良いもので満たされています。あらゆる危険から私たちを守り、心も体も健やかに、感謝をもって託された働きに励むことができるようにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第18主日 説教          列王記下5:1-3,7-15 テモテ二2:8-15 ルカ17:11-19 「 途中で 」 《イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた》(17:11)と物語は始まります。サマリアとガリラヤの間とわざわざ地名が明記されているのは、福音が背景や社会的地位に関係なく、すべての人々に向けられていることを示しています。 ここで主は《イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください》(17:13)と呼びかけられます。これは病人たちが主イエスに神の権威を認め、その治癒力と病を支配する力に対する敬意と信頼を持っていることを示しています。彼らは、病に冒されただけでも辛く苦しいはずなのに、共同体からはじき出され、愛する者たちとの断絶、そして自らを“汚れた者”と言い現わさなければなりませんでした。そのような状態から自分たちを助け出し、解放する力ある方が目の前に現れたので、必死に声をあげたのではないかと思います。この呼び声に応えて、主はただ一言《祭司たちのところに行って、体を見せなさい。》(17:14)と言われました。すると行く途中で彼らは清くされたのです。彼らの願いはかない、病と苦しみから解放されました。 このうちのひとりは、自分の身に起こったことを知ると、大声で神を賛美しながら主のもとへと戻り、ひれ伏して感謝を表します。 ひれ伏すという行為は、深い敬意と服従のしぐさであり、当時の文化的背景では、特に身分の高い人に対して敬意と感謝を示す一般的な方法でした。この人は、癒されたことを知ると喜びに溢れ、主イエスの権威と力が神からのものであると確信したのです。主はこの人を迎えながら《清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来たものはいないのか。》(17:17)と言われました。ここで明らかになったように、10人の病人のうちサマリア人はひとりだったのです。 平時、異邦人との混血ということで差別を受けていたサマリア人は純潔を良しとするユダヤ人と共にいることはありません。しかし、この境界の場にあって、同じ病気に苦しんでいる者同士、共に生きていたと推測できます。ところが、同じ病を得ていた者同士ですがユダヤ人であればユダヤの祭司のもと、サマリア人はサマリア人の祭司のところに行かねばなりません。それぞれがそれぞれの属するところの祭司によって「清くなった」という再認定を受ける必要があるからです。彼らはそれぞれの共同体に復帰することは出来ても、癒されることによって、共にあり続けることができくなったのでした。とても皮肉なことです。 主イエスは神の身分に固執されず、真の人間としてこの世に生まれ、マリアとヨセフの庇護のもと成長し、ひとりのユダヤ人男性として生きておられました。そして、洗礼者ヨハネの活動に触れ、時が満ちたことを悟られるとメシア(救い主)としての歩みをはじめられます。そして、ユダヤの全土からサマリアの地域など、各地に赴き様々な人たちと出会ってくださいます。そこには、人種や属性による隔ての壁はありません。そして、ご自身が痛みを負い、その命を十字架に差し出すことによって、神の憐み、罪の赦し、愛はすべての人に注がれるということを示してくださったのです。《立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。》(17:19)と主が告げられた時、戻ってきた人は新しい喜びを知ります。それは自らに起きた出来事が誰によってなされたかを気づかされるだけなく、まさにその方が自分の隣人となってくださったという喜び、共に生きる/生かされる喜びです。(岡田)             《 来週の礼拝 》                               #10月19日 午前10時30分 聖霊降臨後第19主日 礼拝 *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「すぐではないいつどうにか 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん *礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:創世記 32:23-32 (旧56), テモテ手紙二 3:14-4:5 (新394),ルカ 18:1-8 (新143)* 讃 美 歌:158番(1-3)、365番(1,4,5)、増補版 16-1番          

10月5日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第17主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:慈しみと憐れみに溢れる神様。私たちが虚しい時に満たし、信仰が弱い時に強め、愛が冷めた時に温めてください。御子に倣って隣り人を愛し、仕える熱い心を私たちに与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第17主日 説教   ハバクク1:1-4,2:1-4 テモテ二1:1-14 ルカ17:5-10 「信じて委ねる」  《わたしどもの信仰を増してください》(17:5)という言葉が弟子たちから出てきた理由としては、彼ら自身、主が語られた躓きは避けられないという話しを聞きながら自らの限界を痛感させられたからではないかと思います。この願いには、深い知識、豊かな知恵、慎み、おおらかさ、揺るがない精神、など非の打ち所のない人としての成熟した状態へのあこがれのようなものが見えます。大きな心と深い信仰があれば、主が言われるような人物になれるだろう・・・という思いです。これには、私たちも共感し同意できそうですね。しかしながら、このような考え方は、主イエスが教えられていることとは一致しないということが《「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(17:6)という言葉によって明らかになります。 ユダヤの文化の中で、からし種はことわざの中で非常に小さなものを表すためによく使われていました。また、この地域によく見られる黒桑の木は、その深い根と回復力で知られています。だからこそ、それを根こそぎ引き抜くというイメージは、信仰によって成し遂げられる、一見不可能に思える業を象徴しているのです。《『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。》というのは誇張した表現ですが、信仰の奇跡的な力を強調しています。海は混沌と未知を象徴するものとして用いられることが多く、神の被造物に対する主権を示す背景となっています。もちろん海に木を植えるという行為は不可能なことですが、神への信仰を通して得られる超自然的な可能性を示唆しているのです。 この比喩は、信仰の力を、その量ではなく質、そしてその信仰の対象である神へと目を向けるようにと私たちを促します。つまり、弟子たちの考えが見当違いであった理由は、《わたしどもの信仰》という言葉に表れているように、信仰を獲得するものように理解している点です。神の恵みとして与えられるものを自分の力で勝ち取るようなイメージです。自分の力量、あるいは自分自身から全てがはじまるように考えるところが、そもそもの躓きでなのだ、と主は教えられるのです。《信仰》とは、信じることだけではなく、行動と従順が伴います。桑の木比喩は、信仰には神の約束に基づいて行動することが必要であることを示しています。つまり信仰は、神の主権と、不可能を可能にする神の能力を理解することに根ざしている必要があるというのです。そう《からし種一粒ほどの信仰》というのは、神への信頼と服従、信じて委ねるということなのです。 この物語は、神に従うということは、報酬や承認を求める気持ちではなく、愛と尊敬の気持ちからであるべきであり、たとえ私たちの奉仕に対して感謝を受けられないとしても、奉仕できるのは神の恵みによるものとして、愛の応答なのだと語りかけます。信仰は、自分の信念や強さ、立派さによるものではありません。決して贖うことのできなかった罪を主イエスによって贖われ、赦され、罪赦された罪人として赦しと恵みのうち生かされる喜びを知らされた私たちは、愛されているからこそ愛する者、赦されているからこそ、赦す者として生きるようにと促されているのです。 (岡田)          《 来週の礼拝 》                               #10月12日 午前10時30分 聖霊降臨後第18主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「途中で 」*奏  楽:井上志乃さん*聖書朗読:青木比呂子さん  *礼拝当番:楢戸恵子さん*聖  書:列王記下 5:1-3,7-15 (旧583), テモテ手紙二 2:8-15 (新392),ルカ 17:11-19 (新142) * 讃 美 歌:289番、357番、増補版16-1番