8月3日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第8主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 慈しみ深い神様。あなたは私たちの命の源、道しるべ、そして目標です。愛すべきものを愛し、あなたに逆らうものを拒み、あなたの目に貴いものを大切にすることを教えてください。  救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第8主日 説教              コヘレト1:2,12-14,2:18-23コロサイ3:1-11 ルカ12:13-21        「すべては神の御手のうち」 ことわざに「命あっての物種」という言葉があります。まさにたとえ話の金持ちは、あれこれと思いめぐらせているものの、自分のいのちが瀬戸際にあることを知りません。神によって彼のいのちが取り上げられれば、多くの財産は別の人へと相続されるに過ぎず、この人自身は思い描いたような享楽を味わうことなく死ぬだけです。なんというむなしさ!今日の第一の日課であるコヘレトの言葉にある通りです。 どんなに地上での富を積み、豊かになったとしてもいのちがなければ無意味です。この物語は、貪欲によって視野が狭くなってしまっている人々に、大切なことを思い出すよう促す物語です。つまりいのちの源である神との関係をあなたは見失っていませんか?あなたは神ではなく見当違いな方向を見ていませんか?と問いかけ、神ならざるものへと心奪われてしまっている人を神へと引き戻す物語なのです。 主イエスは“自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者”のたとえとして、この愚かな金持ちの話をされました。恵みに浴していてもその価値を知らず、満足することも無く、今ある恵みに気づかない愚かさ。主は、このたとえ話を聞く者たちが本当に豊かなものとは何か?に気づき、それを求めるようにと願っておられるのです。 いのちも持ち物も、たどってゆくと全て与えられたもの…どれ一つとして同じものは無く、神の愛によって生み出されていったものです。主は貪りではなく、“すべてのものを万物の創造主である神に帰すことによって、自由を得ることができる”、ということを教えてくださるのです。そう、すべては神の御手からいただくもの。私たちが意識している/していないにかかわらず、祝福や恵みは常に注がれています。神の前に豊かな者とは、その源である神との交わりにあることを知らされている者たちのことを指すのです。 私たちが生きる/生かされている現実社会は世界中に満ちる暴力や搾取、様々な不均衡等に満ちています。ほとんどの根底には、今日の物語であぶり出されてきた貪欲あるいは貪り(むさぼり)によって、私たちの視野が狭められ、神から神ならぬものへと心奪われている結果のように思います。《どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい》(12:15)との御言葉が迫ってくるようです。 主イエス・キリストは貪欲にまみれて、自らのために地上に富を求めるのではなく、神を畏れ、愛し、信頼し、御心に適う生き方を求め、天に宝を蓄えるようにと勧められています。この言葉は、キリスト者がどこに軸足を置き、与えられたいのちを生きるのかということを問われる者だと思います。神の国に関する主イエスの教えに触れた私たちは、御心に適う歩みを進めていくことができるように、先立つお方の導きを祈り求めて参りましょう。(岡田)         《 来週の礼拝 》                               #8月10日 午前10時30分 平和の主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「主が示される道 」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん                                                                               *聖  書:ミカ 4:1-5 (旧1452), エフェソ 2:13-18 (新354),ヨハネ 15:9-12 (新198) * 讃 美 歌:439番、470番、讃美歌21 561番

7月27日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第7主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 生きておられる全能の神様。あなたは私たちが祈る前から私たちの祈りに耳を傾け、思いと願いをはるかに超えて聞き届けてくださいます。あなたの豊かな憐みを注いでください。良心の咎を赦し、ただ御子のみが賜ることができる良きものを与えてください。  救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第7主日 説教              創世18:20-32 コロサイ2:6-15 ルカ11:1-13        「世界を包む祈り」 今日の福音の日課は、弟子たちが《わたしたちにも祈りを教えてください》(11:1)と願ったことにより、主イエスが「主の祈り」を教えてくださっている個所です。この祈りには個人の地平から始まって世界を包むダイナミックさがあります。主はこの祈りを神への信頼をもって祈るようにと命じられました。 「祈り」は信仰者にとって深呼吸のようなものだと言われます。「呼吸すること」が生きるために欠かせないように「祈りの生活」は信仰者に不可欠であるというのです。本当にそうだな、と思います。祈りはいつでもどこでも行うことができます。道具も何も必要ありません。ただ、「主よ」と呼び求めることから始められます。整った文章にならなくても、うまくまとまらなくても、心のうちにある思いを打ち明けることができます。そして、このような交わりを通していくつかの気づきが与えられ、癒しを与えられることもあるのではないでしょうか。 何度もご紹介していますが、毎週金曜日の午後9時からインターネット回線を用いてミャンマーを覚えての祈り会が続けられています。先日233回目の祈り会でした。日本ではもはやニュースにもならない状況ですが、ミャンマー国内では未だ凄惨な暴力が毎日起きています。3月の地震が起こった地域にも容赦ない空爆が繰り返されています。あまりにも多くのいのちが失われました。国内あるいは国外に出て避難民として生活することを余儀なくされている人たちも数え切れません。祈り会から生まれたアトゥトゥミャンマー支援という小さな団体は8月1日で設立から4年となります。祈りという営みから始まった支援活動は、地味で小さいものですが、細々ではありますがしたたかに継続しています。そして、来週、祈り会のメンバー有志がタイに逃れ、生き延びた子どもたちに折りたたみ傘とレインコートを届けるプロジェクトを決行します。 残念なことに、「そんなことにどのような意味があるのか?」と疑問を呈してくる方もおられるそうです。もっと合理的で有効な支援の方法もあるのではないか、と言われるのです。しかし私たちは、祈りをかさね、知恵を出し合い、自分たちの持てるネットワークを駆使しながら、相手のニーズを引き出し、出来るところからやっていく。つながり合った人との関りを大切にしていきながら、クーデータへの抗議の意味も込めて平和構築の営みを続けていきたいと願っています。バプテスト教会の川内牧師と共にアトゥトゥ帯広として呼びかけたところ、沢山の祈りと物資が寄せられました。皆さんの思いも込めて、集積所として奉仕くださる教会に向けて発送いたします。 弟子の質問にこたえる形で主イエスが教えてくださった祈りには、私たちが祈るべきことがらが網羅されています。父への感謝と賛美、信頼と希望、赦しの祈願ととりなし・・・これは、私たち信仰者がキリストの愛に生きる喜びを味わうことができる祈りでもあります。そして、主が私たちを愛し、赦された罪人として生きる道を拓いてくださりその道を進むための道標、世界を包む祈りです。 主の祈りを祈る度、私たちも神の愛を知る者として生かされており、主イエスによって示された愛の業によって罪を赦され、他者を赦し、愛する者として立てられていることを知らされます。《あなたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求めるものに聖霊を与えてくださる》(11:13)とあるように、神の慈しみによって赦しと愛に生きる者とされた私たちは、「祈りは必ず聞き届けられる」と信じ、あきらめることなく、執拗に祈る者であるようにと促されています。(岡田)          《 来週の礼拝 》                               #8月3日 午前10時30分 聖霊降臨後第8主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「すべては神の御手のうち 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:青木比呂子さん*礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:コヘレト 1:2,12-14,2:18-23(旧1034), コロサイ 3:1-11(新371),ルカ 12:13-21 * 讃 美 歌:398番、434番、讃美歌21 561番

7月20日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第6主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」 神様。御子キリストこそ教会の頭であり、土台です。主を信じ、みことばに聴き従い、希望から離れず歩むことができるよう、私たちを導いてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。    ♪ アーメン 《 来週の礼拝 》 #7月27午前10時30分 聖霊降臨後第7主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「世界を包む祈り」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:小笠原里子さん*礼拝当番:楢戸恵子さん*聖  書: 創世記 18:20-32(旧24), コロサイ 2:6-15 (新370),ルカ 11:1-13(新127)                                                                                                        * 讃 美 歌:増補35番 、364番(1,4,7,8)、 200番

7月13日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第5主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:   神様。御子の十字架と復活によって私たちは贖われ、永遠のいのちに与ります。あなたの愛と導きによって、私たちを世に遣わしてください。       救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第5主日 説教   「わたしの隣人とは」          申命記30:9-14 コロサイ1:1-11 ルカ10:25-37 この物語では、このサマリア人が半死半生の旅人を大変よく気遣いっている様子を生々しく、克明に伝えます。この人は、倒れている人を目にすると考えるよりも先に動きます。ぼろぼろにされて打ち捨てられている人への同情心が彼を動かしたのでしょうか。もちろんそれもあると思いますが、この人が動いたのは、傷んでいる人を救護しなくてはならない、という義務感もあったのでしょう。冒頭の問答で、誰もが知っている律法の教えの実践ですね。この人は、単に知識として律法を学んでいたのではなく、その心にも神の言葉を刻んでいたのでしょう。だから、彼は考えると同時に、否、考えるよりも先に行動できたのではないかと思います。 このサマリア人の振る舞いを見聞きする私たちは、隣人を愛するという時、そこにはその人に心を寄せる一時の気持ちの高ぶりだけでなく、冷静さや、組織力、様々な判断を下す能力などが必要であることに気づかされます。また、祭司やレビ人の振る舞いを見ると、憤り、非難したくなるかもしれませんが、彼らがそれに気づくことができなかったように、私たち自身にもそのような面があるのではないかとも考えさせられるのではないでしょうか。 すぐそこに、痛めつけられ、傷つき倒れている人がいても、目を逸らし、ルートを変えて遠回りした祭司やレビ人のように、私たち自身も立場、民族、過去、イデオロギーへのこだわり、偏見などによって、その人の痛みに思いを寄せることなく、むしろ無視することを正当化してしまっているかもしれません。あるいは見えなくなっていることにすら気づいていないではないでしょうか?私たちは私たちの行動によって食い止めることができたはずの多くの苦難を、心が動かされなかったためにそのまま放置してきたことを今思い知らされています。ガザをはじめとしたパレスチナの現状はその最たるもの、また日本において非正規滞在者とされてしまっている日本国籍を持たない人たちへの根強い偏見とバッシングについて、私たちはどのように受け止め行動するべきでしょうか? 主イエスはこの物語を通して、隣人愛の義務は人種や宗教の近さとは無関係であり、人間性と同じくらい広いという教訓を浮き彫りにしています。負傷した男性はおそらくユダヤ人だったでしょうが、彼の国籍が言及されていないことは重要です。彼は「ある人」であり、それだけです。サマリア人は彼を助ける前に、どこで生まれたのか尋ねませんでした。主は悲しみや困窮、同情や助けには国籍は関係ないと教えておられるのです。 そしてこの物語において、助け手をサマリア人とすることで、大きなインパクトを与えます。ユダヤ人たちとのやり取りの中に「サマリア人」という名称を持ち込んだのは大胆な試みです。それは、質問者がとうとう最後まで「サマリア人」と口にすることをためらったことからもよくわかります。主はこのたとえ話を通して、慈悲、愛、憐れみについては無制限。限界突破であることを示されます。そして、愛の実践においては、隔ての壁は取り除かれる、ということを教えられているのです。それは、何よりもご自身が肉体を持った人として、この世に降り、私たちと共に生き、友となられたことによって開かれた私たちの進むべき道そのものです。主は私たち人間がどれほど遠く離れていても互いに隣人となり得ることを示されているのです。(岡田)                   《 来週の礼拝 》                               #7月20日 午前10時30分 聖霊降臨後第6主日 礼拝 *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「わたしだけの恵み 」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:青木比呂子さん*礼拝当番:秋田直枝さん*聖  書:創世記 18:1-10a (旧23) 、 コロサイ 1:15-28 (新368)、ルカ 10:38-42(新127)      * 讃 美 歌:増補35番、402番…

7月6日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第4主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 私たちの主イエスの父である神様。あなたはシオン、私たちを守る町、慰めの母です。あなたの平和を世界中に広めるために、私たちの人生の旅路をあなたの霊が共に歩んでください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨後第4主日 説教           イザヤ66:10-14 ガラテヤ6:7-16 ルカ10:1-11,16-20      「平和の挨拶」  私たちの主なる神とイエス・キリストから恵みと平安とが私たち一同と共にあるように。 《収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい》(10:2)という御言葉は、献身者を募る際にしばしば引用される御言葉だと思います。私が通っていた地元の教会の掲示板や入り口に貼ってあった神学校のポスターにもこの聖句が添えられていたような記憶があります。単純な私は自分の進路を考える際、生まれた時からベビーブーム世代でどこに行っても、何をしても凄まじい倍率の競争社会で生きていかねばならないのであれば、働き手が少ないところにチャレンジしてみてもいいかな?という思いを抱き始めました。そして、高校2年生の秋に初めて三鷹のキャンパスを訪ね、そこで出会った関東の同世代の仲間たちや先輩たちとの触れ合いを通して、本気で神学校を目指す決意を固めたのです。 その出会いから数えればもう30年以上の付き合いとなる仲間の内、私を含めて3人が各地で牧師としての務めを担わせていただいています。いつの間にか青年ではなくなり、いくつかの責任も与えられるようになって、あらためて仲間のありがたさをしみじみ感じています。互いに青春時代にありがちな挫折も経験し、阪神淡路大震災の被災地ボランティア活動では戸惑いや自らのふがいなさに打ちひしがれることもありましたが、福音宣教者として、牧師として世に遣わされることを願って学び続ける仲間たちと、切磋琢磨することができたので、今があると思います。また、現在も、学生時代とは違った課題にそれぞれ向き合いつつ、やっぱり切磋琢磨できていることはありがたいことだと感じています。 主イエスも72人をお遣わしになるとき、1人ではなく2人ずつを組にして派遣されています。証言者はひとりよりも複数と定めた律法(申命記19:15)もありますが、何よりも遣わされる者たちにとっては具体的な相談相手、協力者が共にいるという点は心強かったのでは?と思います。というのも、《行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。》(10:3)とも主が言われているからです。進む先は前途洋々というよりも、苦難、忍耐、練達が求められるようなところと想像できます。 さらに主は《財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。》(10:4-7)と言葉を続けられています。 ほとんど荷物も持たず、先立つものも心もとない状況で、途中で誰にも挨拶をすることなく、目的地では誰かの家に転がり込め、という指示は今風にいうと無茶振りではないかと感じてしまいます。もちろん、主は弟子たちに無茶なことをさせるためにこのようなことを言われているのではありません。 そもそも72人が遣わされた先は、主イエスご自身が行くつもりであった場所とあります。つまり、彼らが遣わされる場所は無作為に選ばれたのではなく、主が福音を伝えるために選ばれた目的地であり、個人的なかかわりを持った人もいたのだろうと考えられます。そして、これは収穫を求めるための派遣。「収穫」は、福音を受け入れる準備ができている大勢の人々を象徴しています。農耕社会において、収穫の時期は非常に重要であり、多くの労働者を必要としました。霊的な意味では、それは人々の心が福音を受け入れる準備ができていることを意味します。収穫は神のものであり、宣教は究極的には神の業であることを示されているのです。だからこそ、先ずは逗留先の拠点定め、平和の挨拶を宣言しなさいと言われているのです。 聖書において、平和は神からの賜物であり、しばしば神の臨在と恵みと結び付けられています(民数記6:24-26)。《この家に平和があるように》(5)という挨拶は、単なる挨拶ではなく、深遠な霊的な祝福なのです。というのも、ここで主は弟子たちを遣わす際に、ご自身の平和を他の人々に広める力を彼らに与えられているからです。この平和は、主イエスが宣教活動を通して宣べ伝えた神の国の到来を予感させるものです。しかし、世は主が近づいて来てくださっているのに、先週の日課にもあったように自分たちの意にそわない場合は拒絶したり、否定します。そして、《狼の群れに小羊を送り込むようなもの》とたとえられるように平和ではない状況が現実としてあるのです。 ここにいる私たちは「主の平和」を知らされる/知ることによって、神を知らない者ではなく、知る者へと変えられたものたちです。神を知らずに生きてきた者が、神と共に生きる者とされるということは、その人の人生に大きな変革をもたらします。《平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる》(6)と主が言われているのは、遣わされた者たちの責任はこの主の平和を差し出すことであり、それが受け入れられることを保証することではないということです。つまり神の召し/呼びかけに人が応えるということは、その人の選択。神とその人の問題であり、救いにおいては常に神に主権があることを強調しているのです。 だからこそ主は《どこかの町に入り、迎え入れられたら、出されるものを食べ、その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ。』と。》(8-11)とも言われるのです。宣教という業は、あくまでもお遣わしになる方の責任においてなされることだからです。 そう、主は、ご自身の名によって遣わされた者たちの平和の挨拶を受け取ることができない人がいたとしても、それは遣わされた弟子たちの責任ではない、とはっきり言われます。それをふまえて《収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい》という御言葉をあらためて聞くと、今、信じる者としてこの御言葉を聞く私たちには新鮮な響きがもたらされるのではないでしょうか? 私たちが宣教する時、神への恐れと信頼をもってあなたは生きているかという問いが同時にあるように思います。派遣されていた弟子たちが主イエスのもとに帰ってくると各々が体験したことを得意げに報告しています。《主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します》(10:17)というように彼らは悪霊祓いのような目立つ出来事を自分たちの成功体験のようにして語るのです。おそらく彼らは遣わされる前よりも自信に満ち、誇らしく感じていたことでしょう。主ご自身も彼らの報告にしっかりと耳を傾けておられます。けれども何となく、モヤモヤが残ります。その原因を考えてみると先週の日課のヤコブとヨハネに通じる弟子たちの勘違い、思い違い、そして主イエスに対する無理解がここにもあるように感じます。彼らのような無理解、勘違いが私たちにもあるのではないでしょうか? 主が弟子たちを遣わされるときにお命じになったことは“何も持たず”、“全面的に神に委ねて旅立ち”、遣わされた場所においては《この家に平和があるように》(10:5)とまず、平和の挨拶をすることでした。それぞれに授けられた権威によって、弟子たちが遣わされた場所で、主イエス/平和の君が共にいてくださる幸いを宣言し、わかちあい、平和の主が拓かれた道に共に従うようにと励まし合うことでした。ここでも、弟子たちの無理解によって、主の真意が今一つ理解できていないのです。 ルカがこの物語を記した理由には、主イエスの十字架と復活、そして、昇天の後、聖霊降臨後に弟子たちが宣教者として世に遣わされ、信じる者たちの群れ(教会)の宣教のことを念頭に置いていたと思います。主イエス・キリストはすべてのものの為に十字架に進み、死んで復活され、再び来るという約束を残して弟子たちに聖霊を送り、ご自身が行くつもりだったあらゆるところで、福音が語られ、わかちあわれることを望まれている。その働きに招かれた者たちは、何よりもまず、心を尽くして、精神を尽くして、神を畏れ、敬いつつ、愛と信頼をもって従うようにという招きだと思います。主は《悪霊があなたたがたに屈服するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい》(10:20)と言われます。 望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを私たち一同に満たし、聖霊の力によって、私たちを望みに溢れさせてくださるように。 (岡田) 《 来週の礼拝 》                               #7月13日 午前10時30分 聖霊降臨後第5主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「私の隣人とは 」*奏  楽:井上志乃さん*聖書朗読:小川敦子さん*礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:申命記 30:9-14(旧329), コロサイ 1:1-14(新368),ルカ 10:25-37 (新126)*…

6月29日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第3主日 礼拝 *配信礼拝(オンライン)で礼拝が行われました。 今週の「つどいの祈り」   神様。あなたにのみ、永遠の喜びがあります。思い煩いが押し寄せる時にも、あなたに聴き従うことができるよう、私たちを支えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン 《 来週の礼拝 》 #7月6午前10時30分 聖霊降臨後第4主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「平和の挨拶 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん*礼拝当番:清水美年子さん*聖  書:イザヤ 66:10-14(旧1170), ガラテヤ 6:7-16(新350),ルカ 10:1-11,16-20(新125)* 讃 美 歌:増補35番 、238番、 194番

6月22日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第2主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:  神様。悩みや不安が私たちに襲い掛かります。上よりの平安をいただくために、すべてを治め、導かれるあなたを信じることができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。     ♪ アーメン ○聖霊降臨後第2主日 説教                イザヤ65:1-9 ガラテヤ3:23-29 ルカ8:25−39           「恐れと不安を越えて」 主イエスの前に悪霊に取り憑かれている男が現れます。この人は《衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた》(27)とあり、わめきながらひれ伏し、《いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい》(28)と大声で言うのでした。主が汚れた霊にこの男から出るようにとお命じになったからです。悪霊に《名は何というのか》(30)とお尋ねになると、悪霊は「レギオン」と答えます。「レギオン」というのはローマ軍団のことです。ラテン語のLegionarius/レギオーナーリウスは、ローマ軍団を構成する兵士のことです。ローマ市民は共和政ローマ中期まで軍団兵としての義務があり、25年間、45歳までの兵役が課せられていました。ですから、この男の苦しみの原因である悪霊とは、ローマ軍の存在そのものであることが示されていると言ってよいでしょう。 支配と抑圧の中で、暴力がおこなわれ、深く心と魂が傷つけられてしまった一人の男。彼が、深い悲しみの中で叫び続け、墓場に住み、生きるということの意味も見いだせないままにあった叫び、呻きに耳を傾け、彼に触れるために主イエスは向こう岸から渡って来られたのです。この男、すべてを奪われ、様々な痛み、苦しみを担わされ、墓に留まり失われたかけがえのない愛する者を思う、その想いにまさって、主はこの人をかけがえのない“ひとり”として見出し、対峙されているのです。 主イエスは、彼の怒りと苦しみのもとであるレギオンを取り除かれます。それは、あのローマ帝国支配を象徴する「豚の群れ」を、海に飛び込ませることでした。この男が捉えられていた怒りと悲しみ、深い絶望に、主イエスが寄り添い、それを受け止めてくださったのです。けれども、物語はこれでめでたしめでたしとはなりません。成り行きを見ていた人たちが、悪霊に取りつかれていた人が救われた次第を知らせると、豚飼いたちは逃げ出し、野次馬的に様子を見に来た者たちは、あの男が正気を取り戻し、服を着て、主イエスの前に座っているのを見て恐ろしくなっているのです。そして、ゲラサの人々は自分たちのところから出て行ってほしいと主に願うのでした。 《彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである》(37)とルカは記しています。ゲラサの人々は、人が癒されることで神をほめたたえることはしませんでした。彼らは経済的な損失を勘定し、あまりにも損失が多いことに目を見張り、主イエスの業が良いものであったとしても、見通しがつかず、管理もできない力を脅威としか受け止められないのでした。だから、出て行ってくれというのです。主が帰ろうとされると、癒された人がお供したいとしきりに願いますが、主はこれを良しとはされません。《自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい》(39)といって戻されます。癒された人は、この主の言葉に従って、自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた、というところで日課は終わります。 この人がどこまで主イエスのことを理解していたかはわかりません。けれども、ただ一つはっきりとしていることは、この人は主が自分にしてくださったことを自分のことばでしっかりと語ったということです。町へ戻った時、この人にも恐れと不安があったかもしれません。しかし、それらを越えてこの人は神の業の証人として生きる者となりました。かけがえのない一人として、主に見いだされ、主によって癒され、神の御心に触れたものは、福音宣教者としてたてられていくのです。(岡田) #今週の礼拝は、札幌礼拝堂、札幌北礼拝堂、新札幌礼拝堂の3礼拝堂交流の「こんにちはウイーク」として行われ、他の礼拝堂からの参列者も迎え礼拝堂も満席で行われました。                  《 来週の礼拝 》                                #6月29日 午前10時30分 聖霊降臨後第3主日 礼拝 (配信礼拝で行われます)  *司  式:小泉  基 牧師                                                                                              *説  教:小泉  基 牧師「安楽椅子から立ち上がる」                                                              *礼拝当番:小笠原里子さん

6月15日「今日の礼拝堂」

三位一体主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」 天地の主である神様。宇宙が創られる前から、あなたは三位一体の神として、創造の主、永遠の救いの御言葉、命を与える知恵の霊です。あなたの霊によって真理をことごとく悟らせ、キリストが啓示したすべてを宣べ伝え、栄光の喜びに共に与ることができますように。栄光と誉れが父と子と聖霊であるあなたに今も後も永遠にありますように。            ♪ アーメン 《 来週の礼拝 》 #6月22午前10時30分 聖霊降臨後第2主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「恐れと不安を越えて 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:青木比呂子さん*礼拝当番:楢戸恵子さん*聖  書:イザヤ 65:1-9(旧231), ガラテヤ 3:23-29(新346),ルカ 8:26-39(新119)* 讃 美 歌:277番 、292番、 教団122番

6月8日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨祭 ペンテコステ 礼拝 今週の「つどいの祈り」:   神様。あなたのいのちの息で、私たちは生かされています。救いのみわざを宣べ伝えるために、聖霊にとって私たちを力づけてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン ○聖霊降臨祭 ペンテコステ 説教   「心を騒がせるな、おびえるな」                     創世記11:1-9 使徒2:1-21 ヨハネ14:8-17,25-27 主イエスは今日、ご自身を「道」とたとえられながら、それは目的に到達する通路としてというのではなく、主ご自身がその道を歩もうとする私たちと一緒に歩みを進めてくださるから、私たちは真理へと、命へと歩みを進めることが出来ると約束されました。そしてさらに《わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい》(14:11)とも言われました。私は/私たちは、神の御子が十字架と復活を通して恵みの御業を成し遂げてくださったという所に、いつでも立ち帰ることができるのです。なぜ神がこのようなことを成されたのかというと、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためです。 この世における私たちの人生は、愛を受け、愛を深め、愛において成長し、そして愛を与える機会です。そしてこの愛は、死によっても決して失われることはありません。むしろ、より親密に、より身近に感じられるようになるのではないでしょうか。なぜなら、主イエスが十字架で死なれた瞬間こそ、紛れも無く彼の人生のうちで最も偉大な瞬間だったからです。 聖霊降臨を祝うこの日、新札幌では一人の方が洗礼をお受けになります。愛する方を見送られ、知人の紹介で礼拝に出席されるようになり、この一年、ほぼ欠かさずに通ってこられていた方です。洗礼を意識して、学びを始めたとき、その方は「自分の勝手な思いや考えでちゃんと理解できていないかもしれない」と口にされていました。「でも、クリスチャンの息子にもすべてを理解してなんて考えていると、いつまでたっても洗礼は受けられないよ。洗礼がスタートだよと言われたので、いいのかなと思います」ともおっしゃっていました。この言葉を聞いて私はとても嬉しく思いました。この方のうちに神ご自身が働きかけて、洗礼を受けたいという思いを起こしてくださったからです。聖霊の導きによって、一人の人が主を信じる者として生きるようにされるということ、この奇跡を心から神に感謝します。そして、同時に、私たちはそれぞれ自分が洗礼を受けた時のことを思い起こしてみてはと思うのです。一人ひとり、神との出会い、キリストとの出会い、聖霊の導きの感じ方は違います。違いがあっても、私たちは今、キリスト・イエスを通して示された神の愛に生きる者/生かされている者としてここにいます。なんという恵みでしょう。 私たちは主の死によって多くの実りを与えられました。いずれ私たちにも信仰の道のりを走りとおして、主が約束された場所へと旅立つ日が訪れます。不安や心配事を考えると心騒ぎ、おびえてしまうこともあるでしょう。しかし、主イエスは「心を騒がせるな。おびえるな。」と言われます。主はいついかなる時も共にいると約束し、これを信じよと言われるのです。私たちはこの主のことばに立ち、その日、その時を迎える瞬間まで、主の愛に満たされた者、恵みを受けた一人の信仰者として、キリストを指し示しながら喜びをもって定められた道を進んでまいりましょう。   # 前野紀子さんの「洗礼式」が行われました。 新しい信仰の友を歓迎します。                    《 来週の礼拝 》                               #6月15日 午前10時30分 三位一体主日 礼拝 *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「わからなくて信仰 」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:藏谷俊夫さん*礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:箴言 8:1-4,22-31(旧1000) , ローマ 5:1-5 (新279), ヨハネ 16:12-15(新200) * 讃 美 歌:132番…

6月1日「今日の礼拝堂」

主の昇天の主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 神様。弟子たちを祝福しながら、御子が天にあげられたみわざをほめたたえます。今この時代に生きる私たちが、信仰と希望と愛に生きることができるよう、助け、励まし、祝福してください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。♪ アーメン ○主の昇天の主日 説教        「 主を見上げつつ 」                      使徒1:1‐11 エフェソ1:15-23 ルカ24:44-53 祝福しながら離れてゆく主イエスを見送った弟子たちは、全身全霊が満たされる思いだったのではないでしょうか。《彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内に居て、神をほめたたえていた》(24:52-53)とあるように、物理的には離れていても“主が共にいてくださる”という約束が真実であり、まさに彼らの喜びとなっていたのだと思います。使徒言行録でも同じような描写がありますね。そして、弟子たちに約束の聖霊が降ると、彼らが力を受け《エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる》(使徒1:8)と弟子たちが受け取った祝福が彼らの内に留まるだけではおさまらず、誰かに伝えたい、わかちあいたいという望みに発展し“地の果てまで福音を届ける”ようになると主は言われています。 使徒言行録を読むと、いろいろと困難はありますが弟子たちが生き生きと、確信と喜びをもって宣教活動へと出かけていく姿を見ることができます。命の危険や無理解ということがあっても、主イエス・キリストを通して世に示された神の御心を伝えたいという思いは、決して萎えることはありません。彼らは牢獄にとらえられようとも、仲間内でいさかいが起こっても、神の導きに信頼して福音を証していきました。時には主イエスと同じように癒しの業や奇跡を起こすこともありました。また、弟子たちの証を聞いて、数人から数千人の単位の多くの人々が回心に導かれ洗礼を受けたという記事もあります。 残念ながら私には、弟子たちに与えられていたような奇跡を起こす賜物はありません。しかしながら、私たちの生活のただ中にも、神の奇跡はあるのではないでしょうか?それは、ある人が御言葉や誰かの導きによって礼拝においでになり、洗礼をお受けになるという事。あるいは、幼い時に洗礼を受けていた方々が堅信に導かれるという事でもあります。自然の営みの移り変わりや、新しい命の誕生の喜び、子どもたちの成長、あるいは定められた時を走りぬいてこの世から旅立たれる方を見送るという時、そこには目には見えなくても確かに共におられる方の臨在を感じるのではないでしょうか?私たちの周囲には神の創造の業、恵みと祝福を示す恵みがたくさんあります。しかし、その世界を今私たち人間は暴力によって脅かしいびつなものとしてしまっていることも確かなことです。 先日のLWF事務局長のアンネ・ブルクハルト牧師の講演でも、現代に生きるキリスト者の今日的課題の一つは「差異に基づく合意-屈服することではなく、共通点を見いだすこと」とありました。多くの対立や暴力、不均衡の只中にある現代において、キリスト者であるということ、キリストの福音を知る者、キリストの福音に活かされる、弟子の一人として今生かされている者として、エキュメニカルな対話を続けていくこと、愛の実践に生きることの重要性をしみじみ噛みしめました。 主イエスは《罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に述べ伝えられる》(24:47)ように世界に向かって語るようにと弟子たちに命じられました。この宣教命令は現代の私たちにも同じように与えられています。弟子たちが福音を知る喜びに満たされて、出かけて行ったように、私たちもそれぞれの生活の場、生かされている場所で自分が受けた恵みの御業を伝えることができればと思います。主イエスの招きを受けて、教会の交わりに加えられた私たちは、今も両手を挙げて祝福してくださっている主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、恵みと導きに感謝をささげ、常に主をほめたたえる者でありましょう。そして、主にある喜び、希望、赦し、慰めを世に伝え、実践する者でありましょう。(岡田)                 《 来週の礼拝 》                               #6月8日 午前10時30分 聖霊降臨主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「心を騒がせるな、おびえるな 」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:清水美年子さん*礼拝当番:小川敦子さん*聖  書:使徒言行録 2:1-21(新214), ローマ 8:14-17(新284),ヨハネ 14:8-17(25-27) (新196)* 讃 美 歌:149番、116番、教団122番