1月5日「今日の礼拝堂」

主の顕現の主日礼拝 今週の「つどいの祈り」:   神様。星の光に導かれた占星術の学者たちは、御子を拝み、宝の箱を開けて献げました。私たちを、救いの知らせによって、信仰と奉仕へ導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン       ○主の顕現の主日 説教                 イザヤ60:1-6 エフェソ3:1-12 マタイ2:1-12          「 たどり着いたその先に 」 本日は主の顕現主日。主の顕現とは、“神の救いの約束が全世界に啓示された”というところに焦点があります。《彼らが、王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。》(マタイ2:10-11)不安な世界のただ中で、政治的な矛盾のただ中で、人知れず祝われた世界で初めてのクリスマス=キリスト礼拝。飼い葉桶には、人の手を借りなければ何もすることができない幼子イエスがいます。この小さな神の御子との出会い。本当にそれは小さなささやかな出来事だったかもしれませんが、人類にとっては実に大きな出来事だったのです。福音書記者マタイは、神の子の誕生物語に異国の人々を登場させることによって“世界中の道を求める者、救いを求める者たちに、今、一つの答えが与えられた。神の答えが顕現したのだ!”と伝えているのです。 その一方でこのささやかな出来事に怯えたヘロデ大王は残酷なことを行います。学者たちに無視されたことを知ったヘロデは、ベツレヘム一帯の2歳以下の男の子の無差別虐殺を命じたのです。まさに今、ガザで、ヨルダン川西岸で行われているジェノサイドを彷彿とさせるような出来事が世界で初めてのクリスマスの後に起こされたのです。政治は一つ狂えば、人間の罪を白日の下に露出させます。間違った指導者、狂気の権力者が影響力を持つと、絶望と悲惨を大量生産します。だからこそ力を持つ者は、その影響力や波及する先をしっかりと弁えておく必要があります。しかし、多くの場合、私たち人間は自分が手にした力や権力に酔いしれ、暴走してしまうのです。政治には常に警戒が必要です。簡単に、賞賛したり、扇動やかけ声に乗せられたり、期待しすぎたりしてはいけません。それは現代でも同じです。 一人ひとりの中に、救いの出来事が起こる。誰がそれに気づくのか?学者たちが一つの星に導かれたように、私たち一人ひとり、道を求める者、真理を求める者には必ず、導きの星が与えられます。学者たちが異邦人であったように、私たちも異邦人です。遠いイスラエルと何の関わりもなく、ユダヤ人と何の関わりもなかった者として生まれ、かの国とはほど遠い、東の果てに生きる/生かされている私たち。どこにも接点がなさそうな私たち。しかし、それでも、それぞれに、導きの星が与えられましたし、また、与えられています。私たちはそれぞれの導きの星によって、暗闇を照らす真の光であるお方のもとへといざなわれているのです。 救いの出来事は地味で素朴で小さなものです。一人ひとりの心に起こる小さな出来事。けれども、その道を通り、私たちは永遠なるお方との出会いを与えられているのです。学者たちは夢のお告げによって、ベツレヘムから別の道を通って自分たちの国に戻って行きました。そのたどり着いたその先にはなにがあったでしょう?私たちも新しい年を迎えて、一つ年を重ねてゆきます。私たちが進む道の先にあるものは何でしょう?相変わらず世の中には暴力や差別などが満ちていて、私たちを不安や恐れに引き込もうとします。しかし、そのような事柄に惑わされるのではなく、暗闇を照らす光なるお方、主が私と共におられることを信じ、一歩、また一歩と進んでまいりましょう。        《来週の礼拝》                               #1月12日 午前10時30分 主の洗礼主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「天が開く」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:小川敦子さん*礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:イザヤ 43:1-7、使徒言行録 8:14-17、ルカ 3:15-17,21-22* 讃 美 歌:190番、307番、増補46番

12月29日「今日の礼拝堂」

ブルークリスマス(命を奪われた幼児の日)礼拝 *配信礼拝(オンライン)で礼拝が行われました。 今週の「つどいの祈り」   神様。きょう私たちはヘロデ王によって命を奪われたベツレヘムの子どもたちを覚えます。 犠牲となったすべての幼い命を、あなたの憐れみの御腕で受け止めてください。そしてあなたの偉大な力で、暴君の悪だくみを阻止し、あなたの正義と愛と平和の秩序を築いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン  《 来週の礼拝 》  #2025年の最初の礼拝です。 #1月5日午前10時30分 主の顕現の主日礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「たどり着いたその先に」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:蔵谷俊夫さん*礼拝当番:楢戸恵子さん、小笠原里子さん*聖  書:イザヤ 60:1-6、エフエソ 3:1-12、マタイ 2:1-12* 讃 美 歌:49番、56番、増補版46番

12月22日「今日の礼拝堂」

降誕祭(クリスマス) 礼拝 今週の「つどいの祈り」:  憐れみ深い主なる神様。御子は、マリアの胎に宿りました。今、御前に集う私たちのもとにも、主よ、おいでください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、私たちの救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン *クリスマスおめでとうございます。クランツの4本目のキャンドル「愛」とセンターの大きなキャンドルも灯されました。これで、「希望」「平和」「喜び」「愛」と4本のキャンドル全が灯されました。 ○降誕祭(クリスマス) 説教                ミカ5:1-4a ヘブライ10:5-10 ルカ1:39-45           「 嬉しい出会い 」 天使から神の御子を宿したと知らされたマリアは、ガリラヤのナザレからユダの町へと旅をします。そこで親類のエリサベトに挨拶をするや否や、エリサベトは聖霊に満たされて声高らかにマリアを祝福し歓迎しました。これを聞いたマリアはようやく緊張がほぐれ、ホッとしたのではないかと思います。エリサベトの胎内の子が《おどった》とあるのは、救い主を指し示す指としての使命を果たす洗礼者ヨハネが、母の胎内にいるとはいえ、マリアの中で胎児となられた主イエスの到来を知って喜びにあふれていることを示しています。クリスマスが私たちにとって喜びとなるのは、神が人間と共に居てくださるために、同じ地平に生まれてくださった、その嬉しい知らせを告げられているというところにあります。 マリアもエリサベトも彼女たちが特別だから神の御心を信じることができたというわけではありません。天使のことばを受けた時、二人は思いがけない神の召しを受け、不安や戸惑いを抱えたことでしょう。しかしそれが自分だけではない、ということを知らされます。そして、二人は出会い互いのうちに宿ったそれぞれの命によって人知を超えた存在へと目を向けさせられ、自分が担うべき事柄を引き受けていくのです。神がわたしに目を留めてくださっている。神がわたしを知っていてくださる。神がわたしと共にいてくださる、ということを知らされたからこそ、二人は信じない者ではなく信じる者へとされました。そして、それぞれの身に起こったことを語り合い、わかちあい、なすべきことを引き受け、全うすることができたのです。 先日、札幌で一人の方が洗礼をお受けになりました。長い間、家族の信仰に寄り添いつつもご自身は少し距離をとっておられるようなご様子の方でした。最近になって重篤な病が見つかり、ご自宅での療養生活をされていたところ、小泉牧師が訪問された際、受洗の意志を問われたところ、「神さまにお任せする」と応じられたので急遽洗礼となり、初陪餐も行われたとのことでした。この嬉しいお知らせを聞いて私も祈りに覚えていたのですが、その日の夜のうちにその方は神の御許へと召されました。金曜日に札幌礼拝堂で葬儀が行われ、急速に事が運んだように見えますが、葬儀を終えられた小泉牧師からは「別れの悲しみと希望が同居する葬儀でした」との報告を受けて、私は万事が神の御心であり、その大きなみわざの中に一人ひとりが招かれてそれぞれの役割を担わせていただいたのだなぁとしみじみ感じました。 神の目が私に向けられている。神は、私に関心を持ってくださっている。教会とはこのように、神に知られていることを知らされた者たち/信じる者たちの群れです。教会に連なる私たちは“神は私を愛してくださっている”という嬉しい知らせを受け取っています。この神の愛が見える形で現れたのが、マリアから生まれたイエス・キリストです。決して消えることのない光として、いと高き神なるお方は、私たち一人ひとりを罪の縄目から解き放ち、祝福し、永遠の命へと導くために世に降られました。私たちはこのお方を主と信じる信仰を与えられています。苦難の道と楽な道がある場合、多くの場合、私たちは楽な道を選びたがるものかもしれません。しかし、《主がおっしゃったことは必ず実現する》ことを知らされている者たちは、恐れや疑いではなく、主が示された道、その導きに信頼し、幸いを喜びながらそれぞれの道を進むことができるのです。                                    《来週の礼拝》                                #12月29日 午前10時30分 ブルークリスマス礼拝 (配信礼拝で行われます)  *司  式:小泉  基 牧師                                                                                              *説  教:小泉  基 牧師「罪人はただ」                                                              *礼拝当番:清水美年子さん、小笠原里子さん                                                                              *聖  書:エレミヤ 31:15-17、ペトロの手紙一 4:12-19、マタイ 2:13-18                                                                        *讃 美 歌: 39番、38番、教団96番                                                                                  

12月15日「今日の礼拝堂」

待降節第3主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:     神様。あなたから救いの知らせが、届けられました。天にあるみ使いと共に、私たちが地上において、みわざを喜び、あなたをほめ歌うことができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン 《 来週の礼拝 》                               #12月22日 午前10時30分 降誕祭(クリスマス) 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「嬉しい出会い」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:小川敦子さん*礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:ミカ 5:1-4a、ヘブライ 10:5-10、ルカ 1:39-45* 讃 美 歌:25番、14番(1,2,4)、教団97番

12月8日「今日の礼拝堂」

待降節第2主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:  全能の神様。あなたのみことばが世に降るとき、みわざが起こります。多くのことに心奪われている私たちが、顔を上げ、みことばに聴き、みわざを仰ぐことができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン *待降節が2週目となり、クランツの2本目のキャンドル「平和」にも点火されました。 ○待降節第2主日 説教             マラキ3:1-4 フィリピ1:3-11 ルカ3:1-6        「 備えられた道 」 アドベントクランツに二つ目の火が灯りました。今週と来週は洗礼者ヨハネについての物語を福音として聞きます。ヨハネは祭司ザカリヤの子として生まれましたが、成長すると都ではなく荒れ野で生活をします。そして神の言葉を聞いたのです。神からの啓示を受けたヨハネは、すぐに行動します。ヨルダン川沿いの地方一帯で罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝え、来るべき方をお迎えする準備を人々共に始めたのです。 ここに引用されているのはイザヤ書40章のからのことばです。マタイやマルコと比べるとやや長めであり、最後の《人は皆、神の救いを仰ぎ見る》(3:6)が強調されています。つまり、主イエスの出現は、単にユダヤ人の救いのためだけではなくて、肉なる者、すなはち、すべての人間の救いのためにほかならない、ということをルカは示唆しているのです。《主の道》とは「主のための道」であり、第一の日課であるマラキ書では神からの使者が《わが前に道を備える》(マラキ3:1)と言っている道です。神の使者たちが証していたお方をお迎えする道。ヨハネは、その救い主がやってこられる道をまっすぐにするだけでなく、谷を埋め、山と丘を低くし、すべてのでこぼこをならす働きをします。それが、悔い改めの洗礼です。 ギリシア語では「ハマルティア」という言葉が「罪」として用いられていますが、これは本来「的を外れる」という意味の言葉です。矢が的に向かわずとんでもないところに飛んでゆくという意味です。つまり、私たちは本来向かうべき存在である神に向かわないで、別なところに向かってしまっている状態が罪にある状態です。 ヨハネの呼び声は、神の前に立つあなたは、今どこを向いて生きているのか?という問いと共に「神の御子はあなたに出会うために近づいて来てくださっている。その知らせがあなたにもたらされている、あなたはその知らせにどのように応じるのか?あなたに近づいて来ておられる方は、あなたがそのお方の到来に気づき、迎える備えをするようにと期待されている。そのお方は、あなたが恐れや迷い、罪や誘惑に悩まされる時、あなたと共にそれらと闘うために来る。なぜなら、あなたを罪から解放し、赦しの中で生きるようになさるためにおいでになるのだから。」という呼びかけにも聞こえてきます。 人間はいつの時代も自己中心的な誘惑に弱く、戸惑い、迷い、見当違いの方向に突っ走ってしまうものです。しかし、そのような私たちのもとに、主イエスは肉体を持った人としておいでになりました。人間の混沌の中に、救い主はお生まれになるのです。真の神なるお方が、真の人として、私たちのただなかに生きたということは、私たちがどのような状態、どのようなところに置かれていようとも、主イエスはそこに訪れてくださる。そこで私と共に生きる者となるために来てくださるのです。 ヨハネの《悔い改めよ》の叫びは、そのような来るべき方へと私たちがしっかりと目を向け、耳を傾け、備えることができるように導く声です。救い主の誕生を待つこの時、この最後の預言者の勧めに従い、まっすぐに私たちへ向かって来てくださる主イエス・キリストをわたしのところにお迎えいたしましょう。(岡田)                      《 来週の礼拝 》                               #12月15日 午前10時30分 待降節第3主日 礼拝  *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「わたしはどうすれば」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:楢戸恵子さん*礼拝当番:青木比呂子さん、小笠原里子さん*聖  書:ゼファ 3:14-20、フィリピ信徒への手紙 4:4-7、ルカ 3:7-18 *讃 美 歌: 5番(1,4,5)、13番(1-3)、教団97番

12月1日「今日の礼拝堂」

待降節第1主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:    万物の創造者、永遠の神様。すべてはあなたによって治められます。救い主の到来を、賛美と祈り、信仰と希望のうちに待ち望む私たちにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン *今日から待降節です。クランツの1本目のキャンドル「希望」が点されました。 ○待降節第1主日 説教                     エレミヤ33:14-16 テサロニケ一3:9-13 ルカ21:25-36          「 その日に備えて 」 教会の暦の上では今日から待降節(アドベント)にはいりました。新年最初の主日に選ばれている福音の日課は先週に引き続き世の終わり=終末への心備えを促すものです。一年の終わりと始まりにこのような日課の配置となっている理由の一つは、私たちが生きている/生かされているこの時が、確実にその日(終末)に向かって進んでいるということをあらためて心に刻むためだと思います。その日、その時がどのようにして訪れるのか?ここ数年の異常気象や天変地異、人災の最たるものである戦争や紛争が止まない状況を見聞きする度に私たちはその日が近いのではないかと戸惑いや不安を感じていると思います。でもだからこそ、私たちは不意に罠のようにやって来て、襲いかかかるかもしれなことに必要以上に怯え、右往左往するのではなく、主イエスの声に耳を傾けるように促されているのではないかと思うのです。 今日の福音の日課にはいくつかのキーワードがあります。一つ目は32節の《すべての事が起こるまでは》です。これは、その“すべての事が起きる”タイミングや順番や時期をご存知なのは主イエス、あるいは神だけであるということを心に刻みなさいということではないでしょうか。二つ目は《わたしの言葉は決して滅びない。》(33節)です。ここにある御言葉とは、イエスが語られた言葉のみならず、主イエス・キリストご自身を通して顕かにされたすべての事を含んでいると思います。限りある肉体をもってお生まれになっただけでなく、出会う一人ひとりと向き合って、十字架に進み、死んで葬られ、三日目に復活された主。十字架の前ですべての希望を奪われ、自分自身にも絶望し、俯くしかなかった弟子たちは復活の主と出会った時に、この時には隠されていたことも理解できるようになりました。そして、一人ひとりの心の中にはもう二度と消えることのない希望の光が灯されたのです。 こうして礼拝に集っている私たちの間にも目には見えなくても主イエスが共にいてくださいます。また、ここに共に集うことが叶わない者たちがいても、すでに天に上げられた者たちも、信仰という恵みによって今なお深い交わりがある事を私たちは知っています。その一つ一つのかけがえのない交わりに思いを巡らせながら、私たちはキリストを頭とした生きた交わりの内に今も保たれていることをあらためて知らされているのです。主が《人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい》(21:36)と言われているのはそのためではないでしょうか。 いずれ誰もがこの地上での生涯を終える時が来ます。この世の終末の前に、人生の終わりの時が来るかもしれません。経験してみなければわかりませんが、恐ろしいだけのことではないように思います。なぜなら、主は“あなたのために場所を用意している”と約束されているからです。主が来られるその日まで、私たちは《目を覚まし》《祈り》つつ、今日という日が主によって祝福され、愛と希望に満ちた日であることを証ししてゆきましょう。(岡田) #礼拝後「アドベントコンサート」を行い、参加者による「寸劇」を行い、全員でその中でたくさんの讃美歌を歌いました。                     《 来週の礼拝 》                               #12月8日 午前10時30分 待降節第2主日 礼拝  *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「備えられた道」*奏  楽:若井裕子さん*聖書朗読:蔵谷俊夫さん*礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん*聖  書:マラキ 3:1-4、フィリピ信徒への手紙一 1:3-11、ルカ 3:1-6* 讃 美 歌:4番(1,3,4節)、7番、教団96番

11月24日「今日の礼拝堂」

永遠の王キリストの主日 礼拝 今週の「つどいの祈り」:      全能・永遠の神様。あなたは愛する御子に油を注ぎ、永遠の王なる大祭司とされました。罪のゆえに分かれた地上の民を、御子イエス・キリストの愛の支配で一つにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン   ○永遠の王キリスト/聖霊降臨後最終主日 説教                     ダニエル7:9-10,13-14黙示録1:4b-8ヨハネ18:33-37            『キリストを待ち望む』 ヨハネ福音書には「人々はわたしのことを何と言っているか?では、あなたがたはわたしのことを何者だというのか?」という主イエスと弟子たちのやり取りの場面はありません。けれどもここで少し形を変えた形で同じような問答が展開されるのです。他の福音書では主イエスが弟子たちに問いかけたのとほぼ同じ内容の質問がローマ帝国を代表している総督ピラトに向けて問われている。つまり主がここでピラトに投げかけている問いと言うのは、世に向けての問いであるともいえるでしょう。つまり、主イエスに対面しているわたし、今福音を聞いているあなたも問われている一人であると言えるのではないでしょうか。そしてこの問いは、ただ問いかけられているだけでなく、主イエスご自身が《わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く》(18:37)と肝心なところへ私たちを導きます。これは、私たち自身が主イエス・キリストを、真理を語る/真理を証する/真理そのものを生きるお方として認識し、この方が私たち一人ひとりと関わってくださることを知る。そして、その主イエス自ら私たちがそのように主を受け止めることができるように招いてくださっている/私は主の招きのうちに生かされている、ということを知らされる出来事なのです。すでに主は17章で《真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです》(17:17-19)と父に向って祈っておられます。主が言われる「真理」というのは、何か理屈として定義されるようなことではなく、ご自身を献げられるキリストの存在と関りから私たちにもたらされるものです。そして、私たちは繰り返し、繰り返し知らされてゆくのです。十字架の出来事が起こってしまうのは、主イエスご自身のみ言葉を信じることを通して、本当の意味で、まさしく「真」に、キリストを信じる全ての者が、様々に罪や限界や問題を抱えつつ、にもかかわらず、神に赦された聖なる者として、神に愛され生き生きと生きる者とされていく・・・。そのことを神が、神に等しい神の子が命を賭けて、私たちにもたらしてくださった。そこに私たちが信頼し、つながっていく・・・そこに導くために、主は今ピラトの前に立っておられる。そして、「あなたはどう考えるのか?」と目の前のピラトに、そして私たちに問いかけておられるのです。 主イエス・キリストご自身を通して示され、信仰の約束として与えられている、私たちの真(まこと)の救い、赦し、命としての真理のみ言葉に聞きなおしていきながら、過ぎた日々の守りと導きに感謝しましょう。そして、真の(まこと)の王であるこのお方に信じて従っていく一人一人として、そのような群れである教会として歩んでいく決意を新たにし、主の御降誕を祝う時をご一緒に迎えましょう。私たちの主なる神とイエス・キリストから恵みと平安とが私たち一同と共にあるように。今日は教会の暦では「永遠の王キリスト」という名前の付いた年末の主日です。教会の暦は待降節から始まりますが、最初の約半年で、待降節、降誕節、顕現節、四旬節、復活節とイエス・キリストの生涯をたどるように設定されています。そして、聖霊降臨を境にして、続く半年は聖霊の豊かな導きによって、私たち一人一人の信仰者、そして教会が主によって養われ、育てられていることを深く味わうことができるためにその日の日課が定められています。現在採用している聖書日課も、A,B,Cと三年周期のものですから、主にマルコによる福音書から聞いていた一年が今日で終わります。 礼拝の度に私たちは信仰告白をします。主に使徒信条を用いていますが「天地の造り主、全能の父である神をわたしは信じます。そのひとり子、わたしたちの主イエス・キリストをわたしは信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。聖霊をわたしは信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活と永遠のいのちを信じます。アーメン。」と毎週唱えているわけですから、今私たちが生きている/生かされているこの時は世の終わり、終末に向かっている最中にあり、いつその時が来てもいいように私たちは心備えをしています、と告白しているのです。 けれども、実際のところは、「いやそんなことを言われても、私はそれほど、切迫感をもって世の終わりに向けての準備なんてしていない。どうしよう・・・」と戸惑われる方もおられるかもしれません。実は私自身もこの世の終わりをどのくらい真剣にとらえているか?と問われると、何となく再臨のキリストと聞くと、真剣に取り組む前に「怪しい輩ではないか」と疑ってしまうことが身についてしまっているように感じます。常に見つめているようでいても、切迫感も真剣さもさほど強くないような、特段意識しているのかいないのかあやふやな・・・という何度も心もとない状況です。 主の復活と召天から2000年以上も経た現在に生きている私たちにとって主イエスの弟子やその弟子たちくらいまでの時代の人たちと比べ、主の再臨という出来事があまりリアリティのないもののように思えるのも無理ないことなのかもしれません。でも、だからこそ、教会暦で一年の締めくくりとなるこの日、そして新しい年を迎える最初の主日である来週の日課において、世の終わり、終末について私たちが真剣に思いを巡らせるように促されているように感じます。 福音の物語は、捕えられた主イエスがポンテオ・ピラトのもとで取り調べを受けている場面です。このあたりの箇所はあまり好んで読むようなところでも、親しみを感じるところでもありません。しかし福音書記者ヨハネは捕らえられた後の主イエスの足跡を丁寧に書き残してくれているので、私たちはあの晩に主イエスが体験された一つひとつをたどることができます。過ぎ越しの食事の席から裏切り者が出て行ったあと、主は真の栄光をお受けになるためにすべての事を引き受け、成し遂げることができるようにと祈りを捧げられます。そして、キドロンの谷の向こうにある園に入られた後、捕縛されるのです。 ユダと共に現れたのは兵士や祭司長やファリサイ派から遣わされた下役たち。まるでこれから大捕り物となることを予想しているかのように武装した人々です。しかし、松明を持った人々を前に主イエスは《だれを捜しているのか》(18:4)と問い、ナザレのイエスを捜しているとの声をお聞きになると、自ら《わたしである》(18:5)と言って進み出て逆らうことなく縛られました。弟子たちの戸惑いや混乱とは裏腹に、主イエスはただ静かに父がお与えになった盃を飲み干すために歩みをすすめられます。大祭司の前に引き出されても、ペトロに知らないと言われても、主はただ静かにご自身の身に起きることを引き受けられます。そして、ローマ人でありユダヤの民を支配している権力者側にあるピラトの前に引き出されても同じです。既に明け方になっていたようですが、主イエスを引き回しているユダヤ人たちはピラトの家には自ら入ろうとはしません。汚れなく過ぎ越しの食事をするためとあるように、彼らは自分たちを支配している異教徒・異邦人たちを汚れたものとして蔑みつつ、征服者たちの権威をもって主イエスを亡き者にしようと企んでいます。ピラトは総督ではありますが、結果的に自部自身が官邸中を動き回りながら、尋問し調べていかねばなりません。ユダヤ人たちが罪人として訴え、引き出してきたナザレのイエスについて実際にどのように扱えばよいのか戸惑っている様子が少々滑稽に見えます。ピラトは《お前がユダヤ人の王なのか》(ヨハネ18:33)と主に直接問いかけています。これに対して、主イエスは《あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか》(ヨハネ18:34)と問い返しておられます。尋問される側の態度ではありません。さすがにピラトもムッと来たのか《わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たち、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか》(18:35)と為政者としてお前の命は自分の意のままであるぞと言わんばかりです。主がここでピラトに問われていることは、「あなた自身の考えはどうか?他の者はどう言っているのか?」ということでした。この問答、どこかで聞いた覚えがあるのではないでしょうか?そうです他の福音書、マタイやマルコやルカでは、フィリポカイサリアで主イエスがペトロから「あなたは神の子メシアです」という信仰告白を導きだしていくときのやり取りとよく似ています。(岡田)        《来週の礼拝》                               #12月1日 午前10時30分 待降節第1主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「その日に備えて」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:清水美年子さん*礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:イエレミヤ 33:14-16、テサニニケ信徒への手紙一 3:9-13、ルカ 21:25-36* 讃 美 歌:1番、9番、教団96番                              

11月17日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第26主日 礼拝 今週の「特別の祈り」:       神様。世の様に惑わされ、思い煩う私たちを憐れんでください。 あなたを信じ、救い主イエス・キリストを信じて、希望に生きる私たちにしてください。世の終わりまで、いつも共におられる主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン  《来週の礼拝》                               #11月24日 午前10時30分 永遠の王キリストの主日 礼拝 *司  式:岡田 薫牧師*説  教:岡田 薫牧師「キリストを待ち望む」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:青木比呂子さん*礼拝当番:蔵谷俊夫さん、小笠原里子さん*聖  書:ダニエル 7:9-10,13-14、黙示録 1:4b-8、ヨハネ 18:33-37* 讃 美 歌:134番(1,3,4)、277番、清い心で

11月10日「今日の礼拝堂」

こども祝福式 大人とこどもがともに守る 礼拝 (#信徒礼拝(配信)で行われました)         アペテロの手紙一 3:1-2、マルコ 13:1-2        今週の「特別の祈り」:          いのちの与え主なる神さま。あなたは、わたしたちに子どもを授けてくださり、親として、教師として、また教会共同体として、子どもと共に成長する機会を与えてくださいます。わたしたちが子どもたちと共にみ国に与ることが出来るように、子どもも大人も、共に導いてください。イエスさまのお名前によって祈ります。 ♪ アーメン 《来週の礼拝》                               #11月17日 午前10時30分 聖霊降臨後第26主日 礼拝 *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「惑わされつつ今も」*奏  楽:滝田裕美さん*聖書朗読:清水美年子さん*礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん*聖  書:ダニエル 12:1-3、ヘブライ 10:11-14,19-25、マルコ 13:1-8* 讃 美 歌:290番、151番、清い心で

11月3日「今日の礼拝堂」

全聖徒主日召天者記念 礼拝 今週の「つどいの祈り」: 神様。あなたは死を滅ぼす、いのちの主。あなたの愛、あなたの息吹、あなたの御子イエス・キリストによって、私たちは贖われます、聖徒たちと共に、地上の日々を送る私たちも、あなたを仰ぎ、賛美する者としてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神永遠の支配者、救い主、主イエス・キリストによって祈ります。♪ アーメン ○全聖徒主日召天者記念礼拝 説教        「 涙をぬぐってくださる方 」                                                                             イザヤ25:6-9 黙示録21:1-6a ヨハネ11:32-44 主イエスは《わたしは復活であり、命である。》(11:25)とはっきりと言われています。そして《わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。》と問われます。マルタはこれに《はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。》(11:27)と答えていますが、ラザロが葬られて四日も立っていた墓で主がラザロに声をかけようとされると《主よ、四日もたっていますから、もうにおいます》(11:39)と言って阻もうとしています。彼女は来るべき時の復活は信じていても、主イエスが今ここに命の君としておられるということを信じることは出来ていないのです。 ご自分をいのちの主、として信じることができていないマルタに主イエスは《もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか》(11:40)と言われます。そして、彼女を説得するのではなく、まさに信じることができない人々の前で、父なる神に祈り、ご自身こそがいのち・復活の主であることを行動で示されるのです。《ラザロ、出てきなさい》と名を呼ばれたラザロは復活し、姉たちのもとへと戻されたところでこの話は閉じられます。しかし、この復活させられたラザロもすでにこの世にはいません。この物語が私たちに伝えるのは、神は一度死んだ者を復活させる力をお持ちであり、主はその命をつかさどる権威を持っておられるという真理です。 私たちの教会の大先輩である、マルチン・ルターの残した言葉に「信仰のみ、恵のみ、聖書のみ」といった有名なものがあります。この背景には彼自身のとてつもなく深い死に対する恐怖と戦いがありました。その戦いの結果、ルターは死を見るのではなく、ただキリストだけを見る。ひたすらに「キリストの義」にのみすがる、という方向に転換させられます。つまり、私たち人間は死すべきものではあるが、キリストを通してこの世で復活と永遠の命を経験することが出来る。私たちのために死に、私たちのために復活された主イエス・キリストにこそ私たちの真の希望、生きる力である、つまり、信仰に生きるということは、キリストの十字架と復活を見続けるということであることを彼は発見したのです。 《わたしは復活であり、命である。》と宣言される主は、人間の最もつらく悲しい死という場面に伴ってくださる方です。そして、その絶望とも思えるところに、死では終わらない永遠の命の約束があると示してくださいます。主は私たちの涙をぬぐい、希望に目を向けさせてくださるお方です。(岡田) 《来週の礼拝》 #信徒礼拝(配信)で行われます。                              #11月10日 午前10時30分 こども祝福 礼拝 *司  式:小泉 基牧師*説  教:小泉 基牧師「ともに悲しみ、ともに喜び、ともに祈ろう」*礼拝当番:小笠原里子さん*聖  書:ペトロの手紙一 3:11、マルコ 13:1-2* 讃 美 歌:こども60番、こども100番)、清い心で